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吉
川 英 治 南 方 紀 行 日 誌
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第一日八日 午後二時福岡着 旅館 清流ホテルに入 暑熱甚し 舎裏中川〈那珂川〉河原 児童等ヨク泳イテイル 五時入浴 夜食楼上食堂 小俣機長少々腹 痢気味ノ由密ニ案ズ 晋、素助〈英治の末弟、次弟〉ヘ手紙カク 赤坂トノ電話通ズ 九時、就寝 八日伊予沖姫島祝島間にて彩雲ヲ視ル 関雪老神明ノ加護トイフ 九日(日曜) 早暁、自身灸治 十壮〈灸の単位〉 八時宿ヲ立 雁巣飛行場ニ行、関雪画伯元気 初空路ニ自信ツケル由。咲フ。 台湾北方颱風気象不安ノ由ニテ発航見合セトナル 宿舎ヲ代ヘ博多中島ノ松島屋ニ戻ル 炎日ノ中人力にて如水神社ノアル西公園ニ上ル 西公園ヨリ大濠公園ニ行 柳塘ノ緑陰にて昼寝二時間ホドスル 久し振青空ノ下大地ノ香ヲ嗅ギテ寝る爽快 目醒ムレバ車夫モ又草ニ寝テアリ 此老車夫話ズキニテ面白し 夜、色紙五枚ノ税課セラレル 按摩トル 蚊帳ナシデ寝る 十日(月曜) 朝刊ニテ「ソロモン海戦」ノ捷報知ル 門出可シ。 八時宿立つ。雁巣発九時半。 天上麗晴霧島ノ峰ヲ機上ヨリ拝ス 桜島 硫黄〈島〉ナドヨク見ルコトヲ得。 機上禁煙、氷砂糖一塊ふくむ。関雪老折々に写生帖ヲ取出シテ他念ナシ 三時半台北着 北投〈ホテル〉 投宿。 塚越〈迷亭〉ニ電ワ 陸軍派遣画家吉岡堅次〈堅二〉君川端〈實〉君ナド居合ス 夜、一同ニテ会飲 関雪虎吼一喝ヲ発シ此夜初メテ面目ヲ現ス。 夜涼台湾トモ覚エヌホド涼し颱風一過ノ直後ノ為ナリシ 深夜塚越宜蘭ヨリ来ル 小俣君ノバナナ乾燥説面白ク聞ク 台湾高砂族義勇軍〈報〉国隊ノ二話アリ 十一日(火曜) 台湾発 暁起 暗イウチヨク塚越ト語ル 一浴。七時宿ヲ立 塚越見送ル 飛行場ニ唯一人ナリ 九時発航 関雪老夜前ノ酔語ニ今朝自ラ度々慰ムノ風アリ 快天。海上ニ虹ヲ見ル。虹殆ど円。 此日初メテ高度四千五百― 十二時十五分 比島陸地ヲ見ル ビガン敵前上陸地 ○サントマス ○リンガヱン 敵前上陸地 ○一時四十分 西飛行場着 ニコラス (東飛行場アリ) 〈ノート冒頭断片的メモにつき略〉 十三日朝 海軍司令部ヲ訪フ ―七時ヨリ長官招待 〈この間断片的メモにつき略〉 夜。司令長官之邸ニ橋本画伯ト共に招カル。長官ノ旧知伴野君同伴。 足立主計其他同席。官邸ハ元アメリカ比島司令長官ノ旧宅ナリシ由。円廊、食堂ノデザイン寺院風にて涼気爽清。(マンゴノ美味)ダバオで捕れたマグロノ刺身 にぎり寿司など当夜ノ御馳走ノ珍味。 九時半頃ホテルに帰る。 (十四日) 暁ニ起ル まだ暗し 二度寝スル 山口〈孫七郎〉君より電話 六時過 大急ぎで支度 関雪画伯と共ニ海軍司令部前桟橋へ馳けつける 今日コレヒドールへ行予定 八時、特発ランオ〈ランチ=小型艇の誤記か〉にて立。風浪の日ハ生命がけなる程なるも今日は晴天ノ凪。 同行西村〈朝日新聞〉支局長、其他局員 小俣飛行士ノ一行も来る。 海上一顧流石ニ大マニラの景観を覚ゆ。 諸所猛 沈没舩艦のマストを見る バアタンの島影―― 〈この間断片的メモにつき略〉 午後二時十五分 コレヒドール帰航 徴用日本漁船ノ勇敢 五、六十頓ニ過ザル 漁船ココニモアリ 〈この間断片的メモにつき略〉 十三日夜 大毎〈大阪毎日新聞社〉吉良君来ル 尾崎〈士郎〉君より電話 徹宵原稿 |
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第二次世界大戦中、吉川英治は前後三回にわたって、広い意味でのいわゆる従軍旅行に出ている。 一度目は昭和12年8月、東京日日新聞(現毎日新聞)の特派員という名目で蘆溝橋事件直後の天津・北京(当時北平)などを旅している。さらに13年9〜10月、「ペンの部隊」として長江を溯江、漢口作戦に従軍。そして17年8月、南方圏を一巡している。今回から数回にわたって掲載するのは、その南方圏一巡の際に記された日誌である。 旅程は17年8月8日〜29日の22日間。朝日新聞社特派員としての旅だったが、当時、海軍軍令部戦史部の嘱託として海軍戦史の執筆を依頼されていた英治にとっては、その取材も兼ねていた。 これは、前年12月の太平洋戦争開戦以来、一気に南方を制圧した日本軍が、この年6月のミッドウェー海戦で潰滅的打撃を受け、南方での制空・制海権を失おうとしていた時期で、また、ガナルカナル島をめぐる攻防戦(ソロモン海戦)の戦端が開かれた頃でもある。 旅には朝日新聞社の所有する飛行機・朝凪が使用された。同行者は、日本画家の橋本関雪と朝凪の小俣壽雄機長以下四名の搭乗員。途中から漫画家の横山隆一も同乗している。 この旅の様子は「南方圏を一翔して」と題して『朝日新聞』同年10月3日〜11月26日にかけて連載された後、加筆して『南方紀行』のタイトルで、翌年、朝日新聞社から刊行された。なお、橋本関雪も『南を翔ける』(昭和18年 朝日新聞社)という画文集を残している。 この旅の日誌は、吉川英治が旅に携帯した昭和17年版文芸手帳と大学ノートの2冊に記されている。この手帳とノートには断片的な取材メモや風景などのスケッチも含まれているが、それらを除いた日誌の部分のみを、一部時系列を整理(同じ日の記述が離れた場所にある場合、それを近づけた)した上で、抜き出したものがこの『南方紀行日誌』である。なお、今回掲載分のうちマニラ部分に関しては、時系列の混乱が見られるので、あえて時系列を整理せず、メモの省略個所も明記した。漢字は現行のものに改めたが、かなづかいやひらがなとカタカナの使い分けは原文のまま。( )は英治自身が用いたもの、〈 〉は編注。判読できなかった文字は□とした。 今回は8月8日〜13日までを掲載したが、このうち11日までは手帳に記されたもので、以降はノートに記されている。 手帳に記された11日までの日誌はごく簡単なものになっている。当時日本統治下だった台湾も含め、ここは日本国内でまだ本格的な取材対象に到達していない、という感覚だったのだろうか。あるいは、台湾には15年に文芸銃後運動の講演会で足を運んでいるため、目新しさがなかったのかもしれない。 一つ触れておきたいのは、川で泳ぐ子供達の話。日誌では福岡到着の8日の部分に書かれているが、『南方紀行』では福岡を立つ10日の朝の出来事とされている。福岡では気象による予定変更のため、途中で宿を替えているので、8日の宿の窓から見えた風景と、10日の宿のそれとは違ったはずだ。つまり、出来事の順序を意図的に変えた可能性が高い。些細なことのようだが、ここからは英治の紀行文に対する態度がうかがわれる。それは、事実を客観的に忠実に伝えることよりも、出来事を通して自らの心情を述べることの方が優先されているということだ。その是非は別にして、それが英治の考え方だった。 ところで、台北で登場する「塚越」とは塚越迷亭のことと思われる。迷亭は英治より2歳年下の川柳家で、英治が雉子郎の名で川柳家として活躍していた頃から交際があり、作家デビュー後、多くの川柳家と疎遠になった英治とも昭和10年代初め頃まで交流を続けた。ちょうどこの頃は台北で台湾川柳社を興し、川柳誌「国姓爺」を発刊していた。 さて、マニラ到着以降の取材メモなどはすべてノートの方にある。ただ、マニラ滞在中の記述は日付けの間違いなどがあって、時間的な面では正確さに欠ける。 その点を補正するため他の資料を見てみたが、資料によって少しずつ時系列が異なっている。 例えば、『南方紀行』では、到着した日(11日)にサント・トーマス大学を訪問、夜には徴用されてマニラに滞在していた文化人たちと会食、翌日(12日)コレヒドールに行き、夜は司令官官邸で会食、さらにその翌日(13日)にキヤビテ軍港とアギナルド将軍の家を訪問、という順に書かれている。 一方、当時『朝日新聞』に掲載された、この旅について伝えるマニラ発の記事を総合すると、キヤビテ軍港とアギナルド将軍の家を見学したのが12日で、コレヒドールに行ったのが13日となる。ところが、関雪の『南を翔ける』ではコレヒドール要塞を描いた絵に「八月十二日」と記されているのだ。 どれが正しいのかは結局はっきりしないが、マニラ部分の日誌のうち「十三日夜」とされている記述以外は日付けも出来事の順序も正しくないということになるようだ。このような混乱を生じたのは、この部分の日誌が、旅の途中のある段階で後からまとめて書かれたからであろう。 英治は日記を書かない人だった。旅行日誌とはいえ22日分もまとまった日誌があるというのは、実は英治にとっては珍しいことなのだ。 普段から日記を書いている人は、忙しくてもその日の日記はその日中に書く習慣がついているものだが、そうではない人は、つい後でまとめてなどと考えてしまう。この旅については後から紀行文を書くことが決まっていたので、普段は書かない日誌を書き始めてみたものの、習慣がないので、初めのうちはついなおざりにしてしまい、後で慌てて何日分かを書こうとして、間違ったという感じではないだろうか。 盛んに首をひねりながら、あれはいつの話だっただろう、などと考え込んでいる姿を想像すると、ちょっとほほえましい。 今回掲載分の最後、「徹宵原稿」とあるのは、『朝日新聞』17年8月21・22日に掲載された「南方便り第一信」をさす。「第一信」とあるが、旅行中に現地から発信された英治の文章は、結局この一編だけである。 |