| 三国志紀行――蜀漢の旅 |
城 塚 朋 和
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水杉並木が迎える漢中市 漢中に入るには航空機で入るのが便利であるが、宝鶏から秦嶺峠を越え、褒水沿いにダムで水没した石門水屏を経て漢中に入る道をとった。 宝鶏市街を抜けるとすぐ山道、秦嶺山脈の山塊に分け入る。約1時問ほどで峠の頂上、車から降りたとたん谷へ吹き抜ける風で身震いするほどであったが、5月上旬、辺りには馴染みの花が咲いていた。山吹、オダマキ、タンポポなど、それに白い花で垂れ下がって咲く灌木が斜面一面に目につくので名前を聞くと槐花(ファイファ)だという。 峠を越え、宝成線の線路と渭水に向かって北流する清姜河を交互に見ながら漢中に向かう。ループ状にどう山の中腹を工事したのかと不思議に思える線路のトンネルがまわっているのを頭上に見上げている内に、河の流れはもう揚子江の一支流嘉陵江上流に沿っているようだ。黄河水域との別れである。 山中の鳳県双不鋪鎮で車は左折、線路とも嘉陵江とも別れ、さらに道は秦嶺山塊へと分け入った。 漢中は漢王室を興した劉邦が漢中王になって力を溜めた地であり、峠を越え漢中平野に入ると山越えして入ったからかもしれないが、麦畑と合間合間に水田も見え、木々は青々として豊かな地と感じる。 また漢中市域に入ったとたん見事な水杉樹の並木が出迎え、市街入口まで一直線に15km、その見事さに余計豊かさを感じたのかもしれない。水杉はメタセコイアのことらしい。新生代の生き残りで化石樹といわれ、木肌だけみていると杉か檜か区別がつかないが、葉は対生で、一見ネムの葉のようであり、日本ではあけぼの杉ともいわれている。 漢中平野(盆地)は中央に漢水が流れ、高温多雨、湿潤気候で陝西の"小江南"ともよばれ、この豊かな地は古代より争覇係争地となってきた。三方を山に囲まれた天険で、ここで力を溜め中原を窺うには絶好の位置であり、劉備も蜀で帝位につく前にこの地を手に入れた。孔明はここ漢中地区勉県(当時はベン陽)に本拠を置いて魏に遠征したのである。 漢の高祖劉邦が漢中王だった時代の宮廷遺址(古漢台)は、漢中市内の繁華街東大街に面して一段と高く石垣がめぐり、現在は漢中市博物館になっている。 博物館の敷地内東大街に面した一画に首のない石人2体と石馬が据えられていた。これは市内の虎頭橋遺址から発掘されて移されたものという。虎頭橋は現在は工事現場のまっただ中で、瓦礫の中に碑がポツンとあるだけだが、ここで、孔明なき後の蜀の後継宰相を窺った魏延が馬岱に斬られたのであった。石人は頭だけ出して埋まっていたらしいので、いつの間にか壊されてしまったものだが、斬殺された魏延の遺址から発掘された石人に首がないのも、ふさわしいといえばふさわしい。 この博物館の見どころの一つは、何といっても今はダムが出来てしまって水没してしまった褒斜道桟道にあった磨崖石刻13点が移されていることだろう。漢〜宋にかけて褒水(漢水支流)の水際に刻されていたものである。曹操書といわれる「袞雪」二文字は中でも圧観であった。 漢中は五斗米道の教祖張魯が支配していたが、曹操は二度攻めて漢中を手に入れた。その遠征の折、褒水の流れを見て書したといわれている。命じられて夏侯淵が漢中を守っていたが、劉備の将・黄忠が攻め、劉備は漢中を手に入れたのである。 さて、「わが屍は定軍山の麓に埋めよ」との遺言により、孔明が葬られた定軍山は漢中市内から西へ40km、勉県郊外にある。劉邦より時代の下がった三国時期はこの地の中心は勉県にあったので、三国関連遺址の多くは勉県側にかたまっている。 漢中市内から西へ1時間ほど走り勉県の中心地から市場の中を抜け、漢水を渡ると定軍山が間近に見える。定軍山は一つの山ではなく12峰の総称である。先の魏の夏侯淵はこの麓に陣を敷いて守り、黄忠と戦った古戦場でもあり、この連峰の西はずれに武侯(孔明の諡号)墓がある。 山の麓に忽然と立派な建物が現れる。孔明墓は直径10m位、高さ5mほどの小山で、拝台には明代、清代に建てられた墓碑が並んでいる。五丈原と同じように、ここも参拝客が次々に訪れ、孔明像を祭る正殿ではばかでっかい線香を焚きながら道士が孔明を守り、正に今に生きている道観となっている。4月5日の清明の日には孔明を祭る祭りが毎年行われている。 実は左手、定軍山の山波に連なるところにもう一つ孔明墓がある。清代にこちらが本当の墓であるとの説が有力となり、こちらが真墓となっている。孔明の偉大さから言えば、なるほど規模的にはこちら"真墓"の方がふさわしい気もした。 漢水を隔てた北側、武侯墓と向かい合う形で武侯祠がある。昔は武侯墓と祠は同じ場所にあったが、明代に祭りをするのに町からでは漢水を渡っていかなければならないので、遠く不便なことから現在の場所に移されたものとのことであった。 現在中国全土には主なもので武侯祠は先に見た五丈原諸葛亮廟を含め10ヶ所ほどあるが、勉県武侯祠(墓)は各地にある武侯祠の中で一番最初に建てられ、勉県武侯祠が原点であり、成都武侯祠が規模的には総本山といった趣である。 武侯祠からさらに西へ10分ほど走ると右手に小山がみえ、頂上に碑が2基みえる。孔明読書台遺址である。伝承によると227年孔明が3軍を率いて漢中に屯営した時、軍務の余暇にここへ来て読書したので後人が記念に碑を建てたとある。 南宋の詩人陸游はここに遊び、孔明を偲ぶ1篇の詩を作った。唐代の杜甫、李白もそうだが、よくもまあ旅行したなと感心するほど、この先三国遺蹟を訪ねた先々で、杜甫、李 白、陸游には出会うことになった。 漢中(勉県)取材でのハイライトは次に訪ねた先主(劉備)漢中王設壇処であった。 漢中市に向かって車をかえし勉県市内を抜けたあと、1本南側の裏道をとり、車1台がやっと通れるほどの道を農村地帯に入り、両側の泥壁の農家の軒先ぎりぎりに約1kmほど進んだ先に設壇処遺址があった。 219年に劉備が漢中王になった時ここに壇を築いて漢中王を宣言した場。三国時代、ここが漢中の中心だったところである。遺址そのものは農家と農家の間に10m四方程に囲まれた塀の中、やはり清代に改修された碑があるだけだが、車を降り、撮影が始まったとたん、子供達が集まり、駆け回って踊り出す、人々は家から出てきて見守る、中には何事が始まったのだろうと、ドンブリをかかえ、戸口で食べながらみつめている。 定軍山麓から武侯墓と歩きまわって、夕刻近くなっていたので、いささか全員くたびれてきていたところだったが、その疲れがいっきょに吹き飛ぶ、楽しい、思いがけない光景に出合うことが出来た。 薄暮の中、漢水に流れ込む支流のほとり、ちょっと水郷になった地点、木牛流馬処へ立ち寄る。孔明考案といわれる木牛流馬には諸説あるが、荷を運ぶ手押車というのが一般的らしい。ここで孔明は木牛流馬を作って訓練したといわれる。これを使って桟道を通って物資を運んだということになっている。ただ木牛流馬処はここだけでなく四川省広元市郊外にも伝承の地が残っている。 |