| 年号 |
西暦 |
生活・作品 |
明治25年
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1892
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8月、神奈川県久良岐郡中村根岸(現・横浜市)に生まれる。本名英次、父直広、母いく。父の事業の失敗で、小学校卒業目前で中退、幾つもの職業を転々とする波瀾の少年期を過ごす。 |
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明治43年
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1910 |
勤めていた横浜ドックでの事故で九死に一生を得たのを機に、その年の暮れに上京、蒔絵師の徒弟となる。また当時新興の機運にあった川柳に目を開き、井上剣花坊門下の一員となる。間もなく、『大正川柳』の同人に迎えられ、"雉子郎"の号で川柳家として名を成す。
柳原涙の痕や酒のしみ
この先を考へてゐる豆の蔓
何尺の地を這ひ得るや五十年
などの川柳を残す。 |
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大正3年
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1914 |
講談社が募集した懸賞小説に応募、「江の島物語」が一等に当選。 |
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大正10年
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1921 |
さらに、3作が入選する。その年の暮れ、東京毎夕新聞社に入社。 |
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大正11年
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1922 |
社命により、「親鸞記」を連載する。 |
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大正12年
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1923 |
最初の妻赤沢やすと結婚。9月、関東大震災遭遇を機に文学に専念する決意を固めた。 |
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大正13年
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1924 |
講談社の諸雑誌に19ものペンネームを使用して作品を発表した。 |
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大正14年
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1925 |
その筆力が認められ、講談社『キング』創刊に場を与えられ、「剣難女難」を連載し、好評を博した。筆名"吉川英治"を初めて使用する。 |
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大正15年
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1926 |
『大阪毎日新聞』に「鳴門秘帖」を連載し、これも大変な評判をよび、一躍大衆文壇のスターダムにのし上がった。引き続き要請に応え、伝奇性豊かな波瀾万丈の物語で人気を呼ぶ。 |
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昭和5年
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1930 |
この頃になると家庭内での確執がきざしを始め、また作品においても新しい視点から明治維新を見つめた作品「貝殻一平」「松のや露八」など書き、自らの進むべき道の模索が始まった。 |
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昭和10年
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1935 |
日本青年文化協会を設立し、会長となって、機関誌「青年太陽」を発刊、農村青年に対し発言を始める。8月、「宮本武蔵」を東西の『朝日新聞』に執筆、その後の自身の文学の方向を決定づけた。 |
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昭和12年
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1937 |
日支事変起こり、毎日新聞の特派員として現地を視察する。その間に離婚成立し、池戸文子と再婚した。 |
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昭和13年
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1938 |
ペンの部隊で漢口作戦に従軍した。二度の中国体験で、中国の人々に触れ、激しく心を打たれた。翌年「太閤記」を引き続き「三国志」を執筆する。
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昭和19年
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1944 |
3月、吉野村(現・青梅市)に疎開。 |
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昭和20年
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1945 |
8月、敗戦と共に執筆活動を休止、疎開先の吉野村で晴耕雨読に明け暮れる日を過ごした。その間地元に溶け込んだ姿を見せた。 |
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昭和22年
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1947 |
4月、「人間山水図巻」を『東京』へ発表し、執筆活動を再開する。 |
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昭和25年
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1950 |
4月、畢生の大作「新・平家物語」が『週刊朝日』に連載が始まる。 |
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昭和33年
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1958 |
1月、「私本太平記」を『毎日新聞』に連載する。 |
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昭和35年
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1960 |
文化勲章受章。 |
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昭和37年
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1962 |
9月7日、没、多磨霊園に眠る。 |