
万葉の秀歌(下)
マンヨウシュウカ

葛飾の真間の手児奈をまことかもわれに寄すとふ真間の手児奈を――東歌 うらうらに照れる春日に雲雀あがり情悲しも独りしおもへば――大伴家持 逞しい生命力と笑いにみちた東歌、望郷の悲しみが胸をうつ防人歌。『古今集』へのかけ橋となった。家持を中心とする末期万葉の優雅な抒情――。宮廷生活から、無名の民衆の息吹きまで、幅広い層の詞華を収めた『万葉集』は、人間味あふれる文学の源泉といえる。本書は、最新の研究成果をとりいれ、秀歌をよりすぐった中西万葉学の精髄である。下巻は巻十一から巻二十まで百十七首を収録。
立山の雪し消らしも延槻の川の渡瀬鐙浸かすも〈大伴家持〉――家持は川に馬を乗り入れてみて、思いのほかの水の豊かさに驚いたのではなかったろうか。ひたひたと鐙をひたす水に足もとの危うささえ感じながら、しかし、それが早くも告げられている春の到来だと知っている。馬の腹までひたす水は身を切るような冷たさであったろうが、凛然とした冷気が気持を引きしめる。私はこの歌を『万葉集』中屈指の秀歌だと思うが、そう感じる理由は、冷気のなかにこもる春の到来というだけにとどまらない。初・二句の山のなかへの想像と三句以下の川の描写によって途中の全風景が手中に収められた、スケールの大きさにもある。もう一つ、家持はこの自然のなかに身体ごとひたっている。体感をとおして自然を知るという万葉ふうな自然観が、ほとんど肉体的な感動をさえ、われわれ読者に与えてくれるのである。――本文より
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目次
●吾が恋はまさかもかなし草枕多胡の入野の奥もかなしも――東歌
●上野安蘇の真麻群かき抱き寝れど飽かぬ何どか吾がせむ――同
●吾が面の忘れむ時は国はふり嶺に立つ雲を見つつ思はせ――同
●都辺に行かむ船もが刈薦の乱れて思ふ言告げやらむ――羽栗翔
●君が行く道のながてを繰り畳ね焼き亡ぼさむ天の火もがも――狭野茅上娘子
●ほととぎすこよ鳴き渡れ燈火を月夜に擬へその影も見む――大伴家持
●うらうらに照れる春日に雲雀あがり情悲しも独りしおもへば――同
●わが妻はいたく恋ひらし飲む水に影さへ見えて世に忘られず――若倭部身麻呂
●松の木の並みたる見れば家人のわれを見送ると立たりしもころ――物部真島
●新しき年の初の初春の今日降る雪のいや重け吉事――大伴家持
書誌情報
紙版
発売日
1984年06月19日
ISBN
9784061457348
判型
新書
価格
定価:694円(本体631円)
通巻番号
734
ページ数
243ページ
シリーズ
講談社現代新書