モンゴル帝国の興亡<上>

モンゴル帝国の興亡

モンゴルテイコクノコウボウ

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世界史はモンゴルを待っていた――草原の遊牧国家が、ユーラシアの東西を結ぶ。チンギスから、クビライの奪権まで。 モンゴル軍少年部隊――モンゴル遠征軍の主力は、少年部隊であった。モンゴル高原を出発する時は、10代の、それも前半の少年であることが多かった。彼らは長い遠征の過程で、さまざまな体験をし、実地の訓練を通して、次第にすぐれた大人の戦士になっていった。……こうした少年兵にとって、遠征の出発は人生への旅立ちでもあった。……彼らは遠征先で、そのまま落ち着いてしまうことも、しばしばあった。その場合、今やすっかり大人となったかつての少年兵や、さらにその子孫たちも、やはり「モンゴル」であることには変わりがなかった。はるかなるモンゴル本土の高原には、兄弟姉妹、一族親類がいた。帰るべき心のふるさとは、みなモンゴル高原であった。……今や、名実ともに世界帝国への道をたどりつつあった「イェケ・モンゴル・ウルス」にとって、モンゴル高原の千戸群こそが、すべての要であった。高原は、「祖宗興隆の地」であるとともに、まさしく「国家根本の地」であった。そして、その地とそこの牧民たちの保有こそがモンゴル大カアンたる証であり、権力のすべての根源であった。――本書より

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モンゴル帝国の興亡〈下〉
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モンゴル帝国の興亡〈下〉

発売日:1996年06月20日

陸と海を結んだ巨大帝国の軍事・行政・経済システムと、その終焉…。巨龍、墜つ。 ナヤンの挙兵・クビライ最後の出陣――三大王国は、孫の世代に移っていた。頼むべき分身の息子たちは、すでにいなかった。クビライの生涯で、最大の危機であった。……73歳の老帝クビライは、みずから迎撃を決意した。悲痛な出撃となった。しかし、クビライは果断であった。迎撃態勢の大綱を指令すると、みずから手まわりの兵団をかき集め、みずから先頭に立って突出した。ときに、陰暦5月13日。象の背に結わえ付けた輿に乗っての出撃であった。……ここで両軍、一気に決戦となった。錐の先のように激しく揉み込むクビライ突撃隊の気迫に、実戦の意欲を欠くナヤン軍は崩れ立った。しかしそれでも、少数突撃したクビライ自身のまわりに危機は迫った。クビライ突撃隊の気迫に、実戦の意欲を欠くナヤン軍は崩れ立った。しかしそれでも、少数突撃したクビライ自身のまわりに危機は迫った。クビライを乗せた戦象は、激しく集中する矢のために、後方へ逃走した。混乱する戦況を決定したのは、かねてクビライが、自分自身の「常備軍」として賛成に努めていた。キプチャク、アス、カンクリなどの諸族から成る特殊親衛軍団の威力であった。……御曹子として、実戦の経験のほとんどない青年ナヤンと、数々の修羅場を踏んできた老人クラビライの違いが、すべてを分けた。敵本営の奇襲を狙った緊急出撃といい、戦場での突出攻撃といい、クビライの采配ぶりは、まことに見事であった。彼は最大の危機を、みずからの力で切り抜けたのである。――本書より

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