
時の潮
トキノウシオシオ
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今日、昭和が終つた。 穏やかな葉山の海に想ふ家族、戦争――新しい戦後文学 天皇陛下万歳はどうです、と私は言つた。ふだん坂西が喋りたがらない事を、喋らせてみたい気になつてゐた。天皇陛下万歳と叫ぶやうに教育されたものの、いざ死に臨めば動物的本能が働いて、お母さんを呼んでしまふ、そんな風に解釈すれば筋は通るけど、実際はどうだつたんです。知らんな、解釈なんて無意味だ、と坂西は素気なかつた。天皇陛下でもお母さんでもなく、弾が当ればみんなぎやあとも言はずに死んぢまつたよ、俺が知つてるのはそれだけだ。鼻の先で戸を閉てられたやうに、私は話の接穂を失つた。――(本文より)
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時の潮
発売日:2007年05月12日
今日、昭和が終った。天皇崩御のニュースをきいて、近くの御用邸に記帳に出かけた。昭和に生まれた私は、私の時代が終わってしまったような気がした。元新聞記者の私は、10歳年下の共同生活者・真子と葉山に暮らし、四季を楽しんでいる。しかし、さまざまに形をかえて潮だまりが出現するように、二人の間にわだかまりがないわけではない。戦時下に生まれ、戦後を生きる男と女を静かに描く、野間文芸賞受賞作。 〇松田哲夫 戦争と天皇にまつわる思い出が、時には烈しく、時には静かに、登場人物に押し寄せてくる。高井さんは、決して声高に歴史や政治にもの申すわけではない。しかし、ここに刻み込まれた言葉は、ぼくたち読者の心にズシリと重くのしかかってくる。そういう意味では、戦争の時代をとらえた、優れた歴史小説だと言ってもさしつかえないだろう。――<「解説」より>