講談社選書メチエ作品一覧

中国パンダ外交史
講談社選書メチエ
ちょうど50年前の1972年10月、日中友好の証として、上野動物園に2頭のパンダがやってきた。しかし、中国がパンダの外交的価値に気づいたのは、1930年代にさかのぼる。戦争と革命、経済成長の激動の歴史のなかで、パンダはいかに世界を魅了し、政治利用されてきたか。パンダを主人公にこの100年あまりを読み直す、異色の中国近代外交史。
19世紀の半ば、パンダはあるフランス人宣教師によって「発見」され、世界に紹介された。欧米人探検家が初めてパンダを射止めたのは1929年。日中戦争下の1941年には、蒋介石の妻・宋美齢が懐柔策としてアメリカにパンダを贈る。1949年に成立した中国共産党政権も、この珍獣の価値を見逃さなかった。人民の愛国思想を育むために北京動物園で展示を始めたほか、モスクワや北朝鮮に贈呈され、ロンドンでも大歓迎される。
日本でのパンダブームは、1972年のランラン・カンカンの来日以前に始まっていた。1970年創刊の『anan』ですでにマスコットとなり、1971年10月にはロンドン動物園でパンダと対面した昭和天皇が満面の笑顔をみせるさまが報道された。
中国はその後も、国際政治、地球環境などさまざまな問題と絡ませながら、近代国家の自己像をパンダを通して国際社会にアピールし、近年では、一帯一路構想下でのパンダの送り先や、二度の北京五輪で採用されたパンダのキャラクターなど、その利用はますます巧みになっている。
2011年刊の『パンダ外交』(メディアファクトリー新書)を全面改訂し、新章を加筆。
目次
はじめに
第一章 パンダ、世界に発見される
第二章 パンダ、他国に贈られる
第三章 パンダ、冷戦に巻き込まれる
第四章 パンダ、日本にやってくる
第五章 パンダ、外貨を稼ぐ
第六章 パンダ、大国を代表する
おわりに
主要参考資料
索引

〈実存哲学〉の系譜 キェルケゴールをつなぐ者たち
講談社選書メチエ
キェルケゴールがいなければ、ウィトゲンシュタインは『哲学探究』を書けなかった!
西洋哲学の地下水脈を探査する、渾身の思想ドラマ!
「実存」とは、不安や孤独、絶望のなかで、主体的に自己のあり方を自由に決断する人間のことだ。その概念の創始者キェルケゴールは、死後五〇年を経て、ハイデガー、ヤスパース、サルトルらに再発見された。しかし、ソクラテスに連なる〈実存哲学〉の真の後継者は、意外なことにウィトゲンシュタインだった――。
哲学者たちの著作や日記から、彼らの人生を丹念にたどり、キェルケゴールの真意がウィトゲンシュタインの哲学に昇華するまでの軌跡を鮮やかに描き出す。理論ではなく、生き方の根幹に関わる哲学がここにある!
【目次】
プロローグ
凡例
キェルケゴール著作年表
第1部 哲学史の中のキェルケゴール
第1章 実存哲学について
第2章 実存哲学とキェルケゴール
第2部 キェルケゴールの〈実存哲学〉
第1章 〈実存哲学〉遠望
第2章 キェルケゴールの〈実存哲学〉
第3章 著作家活動――〈実存哲学〉の具現
第4章 〈実存哲学〉とソクラテス――「誠実さ」の概念
第5章 〈実存哲学〉と実存哲学
第3部 〈実存哲学〉の系譜――キェルケゴールからウィトゲンシュタインへ
第1章 『論理哲学論考』期
第2章 中間期
第3章 『哲学探究』期
第4章 『哲学探究』とキェルケゴール――〈実存哲学〉の系譜
エピローグ
注
あとがき

アトランティス=ムーの系譜学 〈失われた大陸〉が映す近代日本
講談社選書メチエ
はるか昔、栄耀栄華を極めながら、一夜にして海中に沈んだ大陸があった――こんな伝説とともに語られるアトランティス大陸やムー大陸。誰しも子供の頃に、その謎に夢中になった記憶があるのではないだろうか。とりわけ日本は、ムー大陸に日本人の起源を見出そうとした戦前の軍高官から戦後のポップカルチャーに至るまで、言わばこの伝説に長く深く取り憑かれてきた。なぜ、我々は失われた大陸に惹かれてやまないのか。伝説の起点ともいえるプラトンから繙き、その複雑にして数奇な伝説受容を辿る野心作!
プラトンが紀元前四世紀に、著作のなかでアトランティス大陸について記して以来、ムー大陸やレムリア大陸を含む、いわゆる「失われた大陸(Lost Continent)」は2000年以上にもわたって、私たちを魅了し続けてきた。そこには、金髪碧眼のアーリア=ゲルマン人こそが、始原の文明を生み出したと説き、その始まりの地がアトランティスだと主張したナチス・ドイツや、同様の主張を日本人とムー大陸について行った大日本帝国の軍高官らも含まれる。アトランティス大陸の所在に限っても、スウェーデン説やアメリカ説、クレタ島説、サントリーニ島説など多種多様な説があり、21世紀に入ってからも新説が生まれ続けている。
日本では戦前にプラトン全集を翻訳し、日本のプラトン受容において重要な役割を果たした木村鷹太郎(1870-1931年)を皮切りに、アトランティス、そしてムー大陸をめぐって、『竹内文書』をはじめとする偽史、さらに皇国史観ともかかわりをもちながら、さまざまな言説が生まれた。その関心は、戦後になってもなお衰えることなく、オカルト・ブームを経て、小松左京『日本沈没』のようなSF小説はもちろん、『ウルトラマン』や『黄金バット』などの特撮物、手塚治虫の『海のトリトン』などのアニメや映画、さらにはゲームの世界にも浸透しながらますます賑やかに盛り上がっていく。
なぜ、人類は、とりわけ日本人は、これほどまでに失われた大陸に惹かれてやまないのか。本書は起点となるプラトンにさかのぼり、迷路のように入り組んだ日本での受容の歴史を丹念に跡づけ、その心性に迫る!
【本書の内容】
はじめに
序 章 「失われた大陸」について問う理由
第 I 章 アトランティスの由来と継承
第 II 章 アトランティスからレムリア、ムー大陸へ
第 III 章 失われた大陸、日本へ――一九三〇年代
第 IV 章 戦時のムー大陸言説――一九四〇年代
第 V 章 戦後の継承――一九五〇―六〇年代
第 VI 章 神話希求と大災害―一九七〇―八〇年代
第 VII 章 浮上し続ける神話――一九九〇年代以降
最終章 なぜ語られ続けるのか
註
あとがき

英語教育論争史
講談社選書メチエ
中学から高校の6年間で膨大な英単語を覚え、暗号解読のような苦労で英文を訳し、長文の速読練習もこなした。でも、労力の割には使えるようにならない。しかも2020年度からは小学校で外国語が正式教科になった。はたして英語は、どのように教え、学ぶべきか。これは、100年以上前から繰り返された議論である。
小学生の英語教育の是非、必要なのは文法訳読か英会話か、全員が必修の必要があるのか、他の教科にエネルギーを回せばもっと日本人の学力は上がるのではないか、そもそも、外国語は英語だけでいいのか。それは、知的バトルあり、人間臭い感情のぶつかり合いもある、真剣勝負の連続だった。
漱石の指導で英文学に開眼した藤村作の「英語科廃止論」、戦後の熱狂を生んだラジオ「カムカム英語」への批判、加藤周一の「英語義務教育化反対論」、渡部昇一と平泉渉の大論争、筑紫哲也と中村敬の英語帝国主義論争など、文明開化から、戦時下の「敵性語」時代を経て、グローバル化が進む現代まで、「日本人と英語」の百年余りを振り返り、これからの英語教育・英語学習を展望する。
目次
はじめに―― 一〇〇年越しの「真剣勝負」
第一章 早ければ良いのか? 小学校英語教育論争
1 文明開化と内地雑居
2 高等小学校の発足と論争の本格化
3 誰が、どうやって教えるのか
4 岡倉由三郎の小学校英語教育論
5 文部省が小学校英語教育を縮減
第二章 優先すべきは訳読か? 会話か? 文法訳読vs.話せる英語論争
1 学習英文法はどう根づいたか
2 英文法偏重・擁護論争
3 ナチュラル・メソッド論争
第三章 目的は教養か? 実用か? 中等学校の英語存廃論争
1 「一等国」の英語廃止論
2 ナショナリズムと英語教育
3 「米国語」を追い払え!
4 廃止論の急先鋒・藤村作
5 「帝国日本」の英語教育
6 戦時体制下の英語教師たち
第四章 英語は全員に必要なのか?「カムカム英語」と英語義務化論争
1 敗戦直後の英語熱
2 米会話ブームと「カムカム英語」への批判
3 「英語義務教育化」反対論
第五章 国際化時代に必要な英語とは? 平泉-渡部「英語教育大論争」
1 国際化と英語コミュニケーション能力
2 「平泉試案」の衝撃
3 「平泉新提案」をめぐる論争
4 「平泉試案」後の英語教育政策
第六章 外国語は「英語だけ」でよいのか? 英語帝国主義論争
1 言語帝国主義への先駆的な批判
2 一九九〇年代の英語帝国主義批判
3 中村敬と二つの英語帝国主義論争
終章 そもそも、なぜ、英語を学ぶのか? 英語教育論争史が問いかけるもの
おわりに

現代メディア哲学 複製技術論からヴァーチャルリアリティへ
講談社選書メチエ
新しいウイルスの蔓延によってテレワークが普及し、余暇の時間もデバイスで好みの動画を視聴する人が急激に増えています。もちろん、これまでも新聞やテレビを通じて世界を知り、電話や電子メールを使って他の人とコミュニケーションを交わす、ということは行われてきました。しかし、1日の大部分をインターネットに接続された機器に囲まれて生活するようになったのも、それらの機器がAIの搭載によって「道具」と呼べないほど自立した存在になってきたのも、ここ十数年の変化でしかありません――最初のiPhoneが発売されたのは2007年なのです。
これほどの変化が私たちの生活だけでなく、私たち自身に何の影響も及ぼさないとは考えられません。では、それはどんな影響なのか? 新聞やテレビ、電話や電子メールから、スマホで見る動画、さらにはVRまで、これらはすべて「メディア」です。しかし、そもそもメディアとは何なのでしょう? 本書は、ヴァルター・ベンヤミン(1892-1940年)が残した複製技術論を梃子にして、メディアの本質は「複製(コピー)」であるという事実に基づいて、技術の進化とともにメディアが及ぼしてきた影響を考察するものです。メディアは「画像メディア」と「言語メディア」に分類されますが、両者は接合され統合されてきました。その過程でメディアが人間の身体と知覚に与えてきた影響、人間の集団編成のメカニズムにもたらしてきた変化、その結果もたらされた政治性の変容が確かめられます。そして、最終的にそれらの影響や変化はヴァーチャルリアリティに代表される最新のメディアにも見出されることが明らかになるのです。
本書には、日本を代表するベンヤミンの専門家である著者が精緻なテクスト読解と大胆な挑戦的思考を共存させながら結実させた稀有な思考が記録されています。これは、誰もが身を置く現在の状況について本質的な理解を与えてくれる大切な1冊です。
【本書の内容】
第I章 メディアの哲学のために
1 メディアとは何か
2 メディアの転換
3 現代のメディア状況と「複製」
第II章 技術性と魔術性
1 メディアにおける世俗化
2 技術と魔術の弁証法
3 画像メディアと言語メディアの接合
第III章 メディアと知覚の変容
1 技術と知覚
2 新しい技術メディアによる知覚の変容
3 モンタージュと「リアリティ」
4 視覚と触覚の思想史
第IV章 メディアの政治性
1 社会を規定する技術性
2 知識人とプロレタリアート
3 映画を受容する「集合的身体」
第V章 ハイパーテクストの彼方へ
1 「技術的複製可能性の時代の芸術作品」の思考モデル
2 ハイパーテクストの思想とヴァーチャルリアリティ

心はこうして創られる 「即興する脳」の心理学
講談社選書メチエ
あなたが「思っている」と思っていることは、全部でっちあげだった!
「心の奥底には何かが隠されている」と、誰もが思いたがる。
心理学者や精神分析学者たちは、暗がりに潜むものを暴き出そうと奮闘してきた。
だが、神経科学や行動心理学の驚くべき新発見の数々は、隠された深みなどそもそも存在しないことを明らかにしている。
「無意識の思考」などというのは、神話にすぎなかったのだ。
わたしたちの脳は、思考や感情や欲望を「その瞬間に」生み出している……行動の理由も、政治的信念も、そして恋心さえも。
本書が紹介する数々の驚くべき実験結果を目にしたとき、そのことを疑うことはもはや不可能になる。
世界はどのように存在し、自分はどんな人間であるのか―それも、脳がもつ途方もない即興能力によって創り出されるフィクションなのだ。
認知科学をリードする世界的研究者が"脳と心"の秘密を解き明かす、超刺激的論考!
※原題は、The Mind is Flat: The Illusion of Mental Depth and The Improvised Mind (Penguin, 2019)
【本書「訳者解説」より】
本書の最終結論である「心には表面しかない」ということは序章から明記されており、深みという錯覚で私たちを騙している犯人は脳であることが、あたかも最初から犯人がわかっている倒叙ミステリーのごとく、はじめから述べられている。そして、心理学実験を紹介しながら進められる論証は、章を追うごとに説得力を増していくことが、一読してわかるだろう。
・
チェイター教授は、オークスフォード教授との推論心理学(人間はどのように推論するのか)の共同研究を続けつつ、意思決定や判断、言語や社会的相互作用へと研究領域を拡げ、また自ら会社を共同創業したりイギリス政府へ協力したりと、認知科学のビジネスや政策への応用にも取り組んでいる。
・
「心は実体というよりは、外界と接する接触面(インターフェイス)における即興演奏の ”手癖” である」という捉え方を展開する本書の射程はかなり広い。
【本書の内容】
序章 文学の深さ、心の浅さ
第一部 心の深みという錯覚
でっち上げる力/現実という実感/インチキの解剖学/移り気な想像力/感情の創作/選んだ理由の捏造
第二部 即興が「心」を作る
思考のサイクル/意識の経路の狭さ/無意識的思考という神話/意識の境界/原理ではなく前例/知性の秘密
終章 自分を創り直す

目に見えない戦争 デジタル化に脅かされる世界の安全と安定
講談社選書メチエ
本書は、ビッグデータの専門家としてさまざまなメディアで活躍する著者の話題作です。
現代の戦争は、実際の兵器を用いた侵攻も含め、すべて「目に見えない戦争(インヴィジブル・ウォー)」である――これが本書で明らかにされる事実です。その実態が多くの具体的な事例や事件を題材にして語られます。
まずは、デジタル空間における国家の諜報・妨害活動。活動家、テロリスト、ハッカーなど、表面的には国家の委託を受けていない個人によるサイバー攻撃は、国際法上の「戦争」の資格を満たしていません。しかし、今や他国に対する攻撃の要は、相手国の国民の自国政府に対する信頼を切り崩すことにあります。その典型例が2016年のアメリカ大統領選におけるロシアの介入であり、2022年のウクライナ侵攻でも同じ手法が用いられているはずです。こうした情報空間の分断とデマゴギーがもたらす効果は何でしょうか。
続いて取り上げられるのは、自律型致死兵器システム。人の手を交えずに人命を奪う危険な新兵器です。ドローン兵器やキラーロボットなど、現在の戦場における主力兵器のそばに人間の姿はありません。しかし、その使用に規制をかける動きは鈍く、これらの兵器に対抗できる手段を開発するしかないのが実情です。その手段が攻撃してくる相手に対する「逆ハッキング(ハックバック)」ですが、その開発は国家ではなく民間企業によって行われています。
「目に見えない戦争」が一方の西側諸国、他方の中国とロシアという対立の中で進行していることに異論はないでしょう。両陣営は異なる戦略をとり、西側諸国は経済的競争力を高めることを、中国とロシアは経済的な価値のある資源を政治的・軍事的に管理することを目指しています。二つの体制の対立に直面する今、ヨーロッパは、そしてアジア諸国はどうすればよいのか? この喫緊の問いに答えるための材料を本書は惜しみなく与えてくれるでしょう。
【本書の内容】
[1]兵器としてのコード
[2]情報戦
[3]人工知能軍拡競争
[4]ハックバック
[5]主導権をめぐる戦い
[6]「条件つき防衛態勢」

メランコリーの文化史 古代ギリシアから現代精神医学へ
講談社選書メチエ
憂鬱(メランコリー)――この厄介なる気分を、人類はどのように捉え、対処し、表現してきたのか?
古代から現代に至る芸術・医学・哲学を渉猟し、時に死や恐怖と、時に創造的知性や天才と結びつけられ、また治療の対象ともなってきた「メランコリー」の系譜を明らかに。さまざまな災厄に見舞われる現代という時代――親しい人との別れ、死や病への恐怖、ストレスフルな仕事や人間関係、経済格差、パンデミック、気候変動……――を知的に捉え、生き抜くためのパースペクティブは、その「遺産」のなかからもたらされる。
泰斗による決定版文化史。
[本書の内容]
第1章 古代から中世へ
1 古代の苦悩
2 病理から気質へ――四体液説
3 天才の憂鬱――プラトンからアリストテレスへ
4 医学の中世
5 土星のメランコリー
第2章 ルネサンスと宗教改革
1 幾何学の憂鬱
2 宗教改革
3 遠近法の誕生
4 宗教的メランコリー
第3章 近代の始まり
1 モンテーニュ
2 デカルト
3 治療されるメランコリー
4 バロックの想像力
第4章 現代へ
1 精神医学と悪魔
2 精神分析の登場
3 喪とメランコリー
4 根源的な喪失

ウィトゲンシュタインと言語の限界
講談社選書メチエ
本書の著者ピエール・アド(1922-2010年)は、古代ギリシア思想や新プラトン主義の研究者として、コレージュ・ド・フランス教授を務めました。その著作は、古代哲学のみならず、フランシス・ベーコンやデカルトなどの17世紀思想、ゲーテ、ヘーゲルからニーチェ、ベルクソン、ハイデガーに至る19~20世紀の思想まで、幅広い知識に裏打ちされた類を見ない豊饒さをそなえています。その著作はヨーロッパの知識人に大きな影響を与えるとともに、アメリカでも多くの読者を獲得してきました。
ところが、日本では2020年に『イシスのヴェール』(法政大学出版局)が出版されるまで、訳書は1冊も存在せず、それゆえ注目を浴びることもなかったというのは、豊かな翻訳文化を育ててきた国では奇妙な欠落だったと言わざるをえません。2021年には『生き方としての哲学』(法政大学出版局)の邦訳が出版され、ようやく日本でもこの碩学の思想に触れる準備が整いつつあります。今こそ、アドがフランスで初めて本格的にウィトゲンシュタインを紹介した人物でもあること、そして唯一無二の解釈を残していたことを伝える本書を読むべき時だと言うことができるでしょう。
研究者にさえ顧みられずにきた本書に収められた論考は、『論理哲学論考』と『哲学探究』しか出版されていなかった時期に書かれたものにもかかわらず、後続の者が見出すことのできなかった側面を明確に浮かび上がらせるものにほかなりません。アドは深い教養に導かれて、ウィトゲンシュタインの思想の中に古代のストア派や懐疑主義、新プラトン主義とのつながりを、あるいはショーペンハウアーとのつながりを見て取ります。その結果、ウィトゲンシュタインの著作は独自の「哲学」を記述しただけのものでなく、第一級の「哲学史」でもあることを明らかにするのです。
本訳書では、アドの解釈の画期性をよりよく理解できるよう、気鋭のウィトゲンシュタイン研究者である古田徹也氏の重厚な「解説」を収録しました。さらに「訳者後記」では、合田正人氏がアドという人物を中心にした知的ネットワークの広大さを深い思い入れとともに綴っています。本書の中で、これまで知らなかったウィトゲンシュタインの顔を見ることができるでしょう。
今後のウィトゲンシュタイン研究にも大きな一石を投じることになる重要著作の邦訳を選書メチエの1冊としてお届けいたします。
[本書の内容]
序
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』における言語の限界についての考察
ウィトゲンシュタイン 言語の哲学者 I
ウィトゲンシュタイン 言語の哲学者 II
言語ゲームと哲学
解説 ウィトゲンシュタイン哲学の「新しい」相貌(古田徹也)
訳者後記

AI時代の資本主義の哲学
講談社選書メチエ
対・社会主義/対・国家/対・前近代社会――
対比するものや時代によって「資本主義」の意味は変わる。
市場経済・企業組織の変容、中国の台頭。
いま「資本主義」は、どんな現実をうつすのか?
「市場」と「所有」のバランスにその本質を見出し、
歴史と概念から付き合い方を考える、AI時代の「資本主義の哲学」。
*
もちろん私たちは「資本主義」という言葉、概念にだけ関心があるわけではなく、そのような言葉で指示されている現実そのものに対してこそ深刻な関心があります。しかしながら我々は「資本主義」という言葉、概念なしにはその言葉が指し示す現実について考えることはおそらく不可能なのです。――「はじめに」より
【目次】
はじめに
1 資本主義・対・社会主義
2 資本主義とは何か
3 仕組み
4 核心
5 AI時代の資本主義
おわりに
補論 資本主義と国家

演奏家が語る音楽の哲学
講談社選書メチエ
音楽は演奏家を抜きに現実化しない。人間によってしか血の通った音楽を、楽譜の向こう側にある音楽を蘇らせることはできないのである。
本書は芸術大学で指導する一方、演奏家としても第一線で活躍中のフルーティストによる、演奏という観点から見た音楽論である。つねにその瞬間瞬間の現れとしての音楽を生み出す者だからこそ得られる洞察、そこから個性と普遍という大きな問題へも視野を広げていく。
[本書の内容]
第一章 音を奏でる人類
第二章 「音楽そのもの」との交歓
第三章 音楽に表れるのは個性か普遍性か
第四章 音符の奥に立ち上がる音楽
第五章 響かせること、響きを合わせること

英語の階級 執事は「上流の英語」を話すのか?
講談社選書メチエ
「上流」の人は‘Pardon?’を使わない?! ワーキング・クラスからアッパー・クラスまで、話し言葉から見えてくる英国階級文化の世界!
カズオ・イシグロ『日の名残り』の執事スティーヴンズ、『ダウントン・アビー』の執事カーソン、そしてP・G・ウッドハウスが生み出した名従僕ジーヴズ。英国の映画や小説には教養にあふれ洗練された英語を話す執事がよく登場する。あの言葉遣いや話し方は、「上流の」英語なのか――?
‘Pardon’や‘toilet’といった日本人にも身近な英単語は、実は英国では階級の指標になってしまう言葉づかいだった!
「執事の英語」を入り口に、アッパー・クラスや、ロンドンの「コックニー」、ビートルズの登場で世界的に有名になったリヴァプールの「スカウス」などの訛りのある英語、さらにアメリカ英語に英国人が抱く微妙な感情やBBC英語、RP(容認発音)まで、著者自身の経験も交えつつ、話し言葉と「階級」が織りなす複雑で、奥深い文化を描き出す。
何気ない表現から見えてくる、もう一つの英語世界にようこそ!
【本書の内容】
はじめに
序 章 「礼儀正しい」英語はややこしい?
第1章 執事の英語が語るもの――「洗練された」ロウワー・ミドル・クラス
第2章 「U」と「non‐U」――何が「上流」で、何が「上流ではない」のか
第3章 アメリカの悪しき(?)影響――アメリカ英語と階級の複雑な関係
第4章 アッパー・クラスの英語と発音――『マイ・フェア・レイディ』の舞台裏
第5章 ワーキング・クラスの英語――魅力的な訛りの世界
終 章 標準的な、「正しい」英語とは?――BBCの試行錯誤
おわりに――「外国人」の英語
主な参考文献

SNS天皇論 ポップカルチャー=スピリチュアリティと現代日本
講談社選書メチエ
生前退位から令和改元フィーバーの陰で、この国では何が起こったのか?
スマホの中の象徴天皇制を問い、「生前退位」から令和改元の言説空間を鋭く分析する、日本でもっともビビッドな表象文化論!
SNSでは皇太子とのツーショット写真が投稿され、天皇は時に「かわいい」キャラクターとして愛でられる一方、スピリチュアリティへの欲望をかき立てている。
そうした時代に明仁天皇は、「おことば」の発信によって「弱者政治【マイノリティ・ポリティクス】」という言説戦略をとった。
誰もが表象の消費者であり、同時に表象の生成者ともなり得る「ポスト・グーテンベルク」時代に、わたしたちは天皇(制)とその表象をいかにして問うことが可能なのか。本書はその試みである。
[本書の内容]
序章 表象の集積体としての天皇(制)研究―その可能性と限界
第一章 「おことば」の政治学
1映像表現としての「おことば」
2語りの戦略性―「弱者」としての自己表象と「寄り添い」のディスクール
3語り手の欲望―アリバイとしての宗教的超越性の語りと永続性への欲求
第二章 狂乱と共犯―令和改元におけるメディア表象をめぐって
1政府による「政治的利用」の成功
2皇室による異議申し立てとその欲望、実質的共犯
3政府と皇室の共犯関係
4マスメディアの狂乱と不安、SNSの充満とノイズ
第三章 ポップカルチャー天皇(制)論序説
1皇室によるポップカルチャー消費―ゆるキャラ・初音ミク・アイドル
2ポップカルチャーによる皇室消費―現代天皇小説・天皇マンガ考
3 monstrum としての『シン・ゴジラ』
第四章 「スピリチュアリティ」とオカルト―瑞祥・古史古伝・天皇怪談
1令和「瑞祥」と規範逸脱の可能性
2雑誌『ムー』における「オカルト天皇」言説
3現代天皇怪談、その異端性と批評性
第五章 「慰霊」する「弱い」天皇―一九九四年小笠原諸島行幸啓の検討から
1慰霊の宛て先
2訪問意図の読み替え
3「弱い天皇」の誕生
終章 SNS時代の天皇(制)を問うこと
※第四章の一部は、青弓社刊『〈怪異〉とナショナリズム』(怪異怪談研究会監修、茂木謙之介ほか編著、2021年)を基とする。

サン=テグジュペリの世界 〈永遠の子ども〉の生涯と思想
講談社選書メチエ
☆それが〈目に見えないたいせつなこと〉だったのか。☆
「星の王子さま」を生み出した思想とは?
波乱の生涯と作品世界をつなぐ決定的評伝。
サン=テグジュペリは、言わずと知れた『星の王子さま』の作者です。
この子ども向けの小さな物語は、いまもなお世界中の多くの人びとが読み続け愛し続けていますが、その魅力の秘密はどこにあるのでしょうか。
この作品でくりかえし語られる〈目に見えないたいせつなこと〉とはいったい何なのでしょうか。
サン=テグジュペリは、自分の子ども時代を忘れることができなかった、おとなになりきることができなかった人間と言えるでしょう。
彼は、おとなの世界にほかならないこの現実社会を、つねに居心地の悪さ、窮屈さを感じながら、いわばよそ者として、不器用に生きねばなりませんでした。
失敗と挫折、混乱や波瀾に満ちたサン=テグジュペリの生涯は、どこかドタバタ喜劇めいており、それ自体として見ても面白いものです。
ですが、彼自身はこうした人生を懸命に生きることを通して、おとなの世界である現実社会、近代という時代にたいする批判意識を研ぎ澄ましていました。
そして同時に、みずからの内面空間そのものとしての子ども時代の世界のヴィジョンを明確化していったのです。
本書は、こうしたまったくあたらしい視点から書かれた、『星の王子さま』『夜間飛行』をはじめとする作品群の世界をより深く味わえるようになる、サン=テグジュペリの評伝の決定版です。
[本書の内容]
はじめに
第一章 子ども時代(一九〇〇―一九一二)
第二章 青春の惑い(一九〇九―一九二六)
第三章 飛行士にして作家(一九二六―一九三一)
第四章 波瀾の時代(一九三一―一九三九)
第五章 戦争(一九三九―一九四〇)
第六章 亡命(一九四〇―一九四三)
第七章 最後の任務(一九四三―一九四四)
おわりに
サン=テグジュペリ略年譜

極限の思想 ハイデガー 世界内存在を生きる
講談社選書メチエ
大澤真幸・熊野純彦両氏の責任編集による叢書「極限の思想」第4弾!「自らの思考を極限までつき詰めた思想家」たちの、思想の根源に迫る決定版。21世紀のいま、この困難な時代を乗り越えるには、まさにこれらの極限にまで到達した思想こそ、参照に値するだろう。
本巻は『存在と時間』の精密な読解を通して、ハイデガーの思想の精髄にせまる!
ハイデガー自身が執筆し公刊された唯一の体系的な著作にして、未完の大著『存在と時間』。難解をもって鳴るこの哲学書をどう読むべきか。
「私たちがそれぞれそうであるところの存在者」を「現存在」と呼び、また、私たちが「世界の内にある」在りようを「世界内存在」と呼ぶ。このように、さまざまな概念を次々に出しながら、ハイデガーが分析しようとしたこととは何だったのか。私たちがそれぞれの「私」を生きているとはどういうことか。本来的な自己とは。――その哲学的果実を味読する力作。
【目次】
第一章 『存在と時間』という書物
第二章 世界の内にあること
第三章 空間の内にあること
第四章 他者と共にあること
第五章 ひとりの私であること
第六章 本来的な在りかた
第七章 自己であること
終章 世界内存在を生きる

クリティック再建のために
講談社選書メチエ
本書が掲げる「クリティック」は、ふつう「批評」や「批判」という日本語に訳されます。しかし、それらの語では十分に表されない意味が「クリティック」には含まれていることを日本の知的世界は気づかずにきました。その状況を憂える碩学が、これまでの仕事を総括するとともに、将来の知の土台を提供するべく、本書を書き上げました。
「クリティック」とは「物事を判断する場合に何か前提的な吟味を行う」という考え方です。その系譜をたどる道程はホメーロスから開始されます。そこからヘーロドトスとトゥーキュディデースを経てソークラテース、プラトーンに至る古代ギリシャの流れは、キケローやウァッローの古代ローマを経由する形で、一四世紀イタリアのペトラルカ、ヴァッラに至って「人文主義」として開花しました。この流れの根幹にある態度――それは、あるテクストを読み、解釈する前に、それは「正しいテクスト」なのか、そして自分がしているのは「正しい解釈」なのかを問う、というものです。こうした知的態度は古代ギリシャ以来のものであり、のちの者たちはその古代ギリシャ以来の態度に基づいて古代ギリシャのテクストを読み、解釈してきました。そして、それこそがヨーロッパの知的伝統を形作ってきた営みにほかなりません。
この系譜は、近代と呼ばれる時代にデカルトとスピノザによって変奏され、ついには実証主義とロマン主義の分岐を生み出します。その分岐を抱えたまま、現代に至って構造主義と現象学という末裔を出現させました。こうして、古代ギリシャから現代にまで至る流れを「クリティック」を軸にして全面的に書き換えること――そこに浮かび上がる思想史は、まさにその知的伝統から日本が外れているという事実を否応なく突きつけてくるでしょう。この欠如がいかなる現実をもたらしているのか。本書は、現代の危機のありかを暴き、そこから脱出するための道を示して閉じられます。
ここにあるのは、三部作『政治の成立』、『デモクラシーの古典的基礎』、『法存立の歴史的基盤』、日本国憲法を扱う『憲法9条へのカタバシス』、そして話題作『誰のために法は生まれた』など、数々の著作で圧倒的な存在感を示してきた著者からの渾身のメッセージです。
[本書の内容]
第I章 クリティックの起源
1 基礎部分の形成/2 出現/3 混線/4 アンティクアリアニズムのヘゲモニー
第II章 クリティックの展開
1 人文主義/2 ポスト人文主義──クリティックの分裂/3 近代的クリティックの始動/4 近代的クリティックの展開/5 実証主義
第III章 現代の問題状況からクリティック再建へ
1 リチュアリスト/2 社会構造/3 言語/4 現象学/5 パラデイクマの分節/6 構造主義/7 現状の再確認/8 クリティック再建のために

物価とは何か
講談社選書メチエ
◆第65回日経・経済図書文化賞受賞作◆
話題書『世界インフレの謎』(講談社現代新書)の"理論篇"!
インフレもデフレもない世界をめざす経済学
◆朝日(坂井豊貴氏)・毎日(大竹文雄氏)・読売・日経 4大紙書評掲載◆
あのバブル絶頂時、そしてその崩壊、いずれのときも意外なほどに物価は動かなかった。それはなぜか?
お菓子がどんどん小さくなっている……なぜ企業は値上げを避けるのか?
インフレもデフレも気分次第!?
物価は「作る」ものだった?
経済というものの核心に迫るための最重要キーである、物価という概念。
国内第一人者が初歩の初歩から徹底的にわかりやすく説き起こし、社会にくらす私たち全員にとって、本当に知るべき経済学のエッセンスを教える、画期的入門書の登場!
ハイパーインフレやデフレと闘う中央銀行や政府の実務家(ポリシーメーカー)たちは、何を考え何をしているのか。
それらの成果と教訓を研究者たちはどのように学び、理論を発展させてきたか。
私たちの生活そのものと直結する、生きた学問としての経済学が立ち上がっていく様を生き生きと描く!
万人のための学問としてのマクロ経済学を希求する、真摯な社会科学探究。
【本書より】
個々の商品の価格が、売り手や買い手の個別の事情を適切に反映して動くのは、自然なことです。そして、個々の価格は忙しく動きまわるけれど全体としてみると安定している、というのが健全な姿です。ただ、同じ「全体が動かない」場合でも、個々の価格がまったく動かず、その当然の帰結として全体も動かないということもあり得ます。しかしそれは病的だと言えるでしょう。(中略)売り手や買い手の事情で価格が上がり下がりするという、経済の健全な動きが止まっていたら、それは異変とみるべきです。後で詳しく述べますが、今の日本経済はこれに近い状態だと私はみています。
【主な内容】
はじめに
第1章 物価から何がわかるのか
第2章 何が物価を動かすのか
第3章 物価は制御できるのか――進化する理論、変化する政策
第4章 なぜデフレから抜け出せないのか――動かぬ物価の謎
第5章 物価理論はどうなっていくのか――インフレもデフレもない社会を目指して
おわりに
【本書の参考文献】
著者webサイトに一覧が掲出されています。
https://www.centralbank.e.u-tokyo.ac.jp/wp-content/uploads/2022/03/reference0304.pdf
同内容のものを電書版に掲載しました。

スパルタを夢見た第三帝国 二〇世紀ドイツの人文主義
講談社選書メチエ
ヒトラーは、古代スパルタを「歴史上、最も明らかな人種国家」として称揚した。優生学に基づいた人種主義政策をはじめ、いわゆる「スパルタ教育」に範をとった教育政策、「北方人種」神話、さらに「祖国に殉ずる死」の美化にいたるまで、第三帝国の政策には、さまざまな形でスパルタが影を落としている。「スパルタ」は国家社会主義者にとって一種の合言葉であった。
日本ではほとんど紹介されることのなかった、第三帝国におけるスパルタ受容の諸相を明らかにし、そのような事態を前に、人文主義者と呼ばれる古代ギリシア・ローマの学者たちが、ナチズムとどのように対峙したのかを描き出す、かつてない試み!
「優れた詩人、哲学者、音楽家を輩出した文化大国のドイツが、なぜナチズムのような危険思想の台頭を許したのか?」 第二次世界大戦後にナチス・ドイツの蛮行が明らかになって以来、いまだ答えの出ない問いである。
著者は、ドイツ人が18世紀後期以降、古代ギリシアに抱いた特別な愛着にその答えを求める。日本がユーラシア大陸の高い文化を輸入して自国の文化や国家を形成していったように、ドイツは、古代ギリシア・ローマを熱心に探究することで、独自の文化や国家を形成していった。これらの研究・教育に携わる人々は「人文主義者」と呼ばれた。
失業と貧困に喘ぐヴァイマル共和国の下、古代ギリシアに対するシンパシーのモデルが、アテナイからスパルタに転じた時、人文主義者たちにも大きな転換点が訪れる。彼らは、スパルタを模範に据えたナチズムといかに向き合ったのか。研究に没頭することで傍観した者、人文主義存続のために協調した者、学問の自由を賭けて抵抗した者――三人の人文主義者の生き方を通して、人文主義とナチズム、さらに学問と国家のかかわりを問い直す意欲作!
【本書の内容】
序
第1部 人文主義者とナチズムーー傍観、協調、抵抗
第一章 傍観:イェーガー――「政治的な人間の教育」
第二章 協調:ハルダー――人間性の擁護から人種主義へ
第三章 抵抗:フリッツ――「学問・大学の自由」の擁護
補 論 古典語教師の往復書簡に見るナチズムへの傍観
第2部 第三帝国におけるスパルタの受容
第一章 スパルタについて
第二章 ナチズムの世界観・政策とスパルタ
第三章 第三帝国のスパルタ受容に対する国外での賛否
第四章 第三帝国のスパルタ受容に対する国内での批判
第3部 第二次世界大戦後の人文主義者
第一章 イェーガー――人文主義からキリスト教へ
第二章 ハルダー――人種主義からオリエンタリズムへ
第三章 フリッツ――「学問・大学の自由」の擁護から啓蒙主義へ
結 語
注/文献目録/初出一覧
あとがき

極限の思想 ドゥルーズ 内在性の形而上学
講談社選書メチエ
大澤真幸・熊野純彦両氏の責任編集による新たな叢書、刊行開始!「自らの思考を極限までつき詰めた思想家」たちの、思想の根源に迫る決定版。21世紀のいま、この困難な時代を乗り越えるには、まさにこれらの極限にまで到達した思想こそ、参照に値するだろう。
ドゥルーズは20世紀を代表する哲学者だ。難解にもかかわらず、人の心を魅了する力がある。「ドゥルーズは哲学史の空間を高速で飛び回る青白い鬼火だ」と著者は言う。その魅力とは、どのようなものなのか。
たとえば「存在の一義性」という場合、その概念の祖であるドゥンス・スコトゥスの理解をふまえながら、スピノザ、ニーチェと、普通の読みではつながらない流れに系譜を通じさせてドゥルーズ的な配置をつくりあげる。そこにドゥルーズの哲学の創造がある。それを、とくと観賞しよう。
『差異と反復』『意味の論理学』『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』などなど多彩な著作群に鳴り響いている通奏低音を感じ取るために、その「鑑賞の手引き」たらんとする力作!
【目次】
第一章 ドゥルーズという烽火
第二章 存在の一義性という革命
第三章 前哨としての内存在
第四章 ドゥルーズと狂気
第五章 表面という魔物
第六章 特異性と個体性の相克
第七章 無人島と可能世界

〈芸道〉の生成 世阿弥と利休
講談社選書メチエ
出会わざる二つの巨星、ここに出会う。
芸術と政治権力の矛盾に満ちた「共生」の秘密を解き明かす、ドイツ哲学の大家による鮮やかな新解釈。
将軍・足利義満の寵愛を受け、芸術界の頂点を極めた世阿弥は、しかし義教の時代に一転冷遇され、佐渡配流に。一方、織田信長に引き立てられ、豊臣秀吉に優遇された千利休も、最期は秀吉から自死を賜り自刃することになった。
「芸道と権力の矛盾的共生」を生きた稀代の芸術家二人は、弛緩と緊張の相半ばする時代と人生の只中で、能楽と茶の湯という芸道をいかにして成らしめたのか。時の隔たりを超え、二つの巨星を突き合わせることで見えてくる、日本的美の深奥としての「遊」の境地。
[本書の内容]
第一章 なぜ「世阿弥と利休」か
一 六百余年の忘却に埋もれていた世阿弥
二 「世阿弥と利休」という視座
三 世阿弥と足利義満・義教
四 利休と織田信長
五 利休と豊臣秀吉
六 「芸道」および「茶道」の概念史
七 東西の芸術観の比較
八 戦陣の中の遊楽
第二章 世阿弥と義教
一 足利義教――天魔と歌人が同居する将軍
二 『風姿花伝』の「花」
三 『風姿花伝』から『花鏡』へ――「秘すれば花」
四 「離見の見」――演者の目と観衆の目
五 「批判之事」――「貴人」の批評眼の意味
六 『金島書』――「こがねの島」佐渡へ/から
第三章 利休と秀吉
一 『南方録』研究史の概観――茶湯ニハ、昔ヨリ書物ナシ
二 下克上の時代の茶の湯
三 織田信長――夢幻の如く也
四 秀吉と利休――美をめぐる対峙と共生
五 『南方録』の美学
六 「利休死後」の利休
結語 「遊」、そして現代
あとがき 西田幾多郎の手紙(新史料)にちなんで