講談社選書メチエ作品一覧

ポジティブ心理学 科学的メンタル・ウェルネス入門
講談社選書メチエ
精神疾患の治療(マイナスをゼロへ)の枠を超え、
さらなる「幸せ」を目指す、ユニークな心理学が誕生した。
”ポジティブ心理学”は人生の価値観を問い、
哲学的知見も融合する、総合学である。
同じ環境で暮らす修道女の、寿命の差に潜む驚くべき原因とは?
利他行動は、精神にどんな良い影響を生むのか・・・・・・?
さまざまな実験から、
自らを「幸福」状態へと導くメソッドを、学術的に検証。
新たな学問の可能性と個人、社会への活用法を、
政治学者が豊富な事例をふまえ、細やかに解説する。
序章 政治学者、ポジティブ心理学と出合う
第一章 幸福へのアプローチ ウェルビーイング(良好状態)の科学的解明
1「心」のあり方が現実を変えるーー「修道女研究」の衝撃
2 幸福をもたらす感情・心理を測る
3「実践的科学」というポジティブ心理学の特質
第二章 本当の幸せを生み出す 「美徳」と「人格的強み」の再発見
1 短期的快楽か、長期的幸福か。ヘドニア─エウダイモニア論争
2 二四の「強み」から検証する、<人間>の物語
第三章 個人から社会へーー。ポジティブ心理学の包括的発展
1「心の状態」を善くする組織・制度とは?
2 高齢化社会への希望「ポジティブ健康」
3 次世代のための「ポジティブ教育」
4 ビジネスの成功を導く「ポジティブ組織学」
5 繁栄する社会への「ポジティブ政治経済」
注
参照した海外のテキストや辞典
日本語での概要や参考図書
あとがきにかえてーー「善き幸福」の時代への希望
(内容紹介)
ポジティブ感情は視野の広がりを生む。(中略)避けがたい困難で生じたネガティブな心理状態からの回復力(レジリエンス)を高めることにも寄与できることがわかってきている。ポジティブ感情を生み出すエクササイズは、弱い立場にある人が上向きの循環をつかむアート(技術)、身を守るためのアートとして生きるものでもあるのだ。
―――「第一章 幸福へのアプローチ ウェルビーイング(良好状態)の科学的解明」より

現代民主主義 思想と歴史
講談社選書メチエ
日本では民主主義(デモクラシー)の使徒とみなされるルソーが、欧米では全体主義の思想家とみなされるのはなぜか。なぜ、民主主義はナポレオンやヒトラーのような独裁を生み出してしまうのか。民主主義は何に敗北してきたのか。そもそも民主主義とはいったい何なのか――。
本書は、民主主義、そして民主主義の双子ともいうべきナショナリズムをめぐる思想がどのように生まれ、変容してきたのか、原点であるフランス革命の基盤となったルソー、シィエスの思想にさかのぼり、トクヴィルやJ・S・ミルによる自由主義者からの民主主義への反論、世界大戦期ドイツのヴェーバーとカール・シュミットの思想、さらに全体主義批判を踏まえた冷戦期のアレント、ハーバーマスを経て冷戦終結後の現在に至るまで、思想家たちが生きた時代的背景とともに、一気呵成に描き出す。
民主主義とはなにか、この根源的な問いの答えは、幾多の血を流しながら民主主義が歩んできた歴史のうちにこそ見いだされる。著者渾身の民主主義思想史!!
【本書の内容】
はじめに
序章 民主主義のパラドクス
第1章 近代民主主義とナショナリズムの誕生
第1節 フランス革命とルソー、シィエスの思想
第2節 ドイツ・ナショナリズムとフィヒテの思想
第2章 自由主義者の民主主義批判とナショナリズムの発展
第1節 民主主義革命とトクヴィル、ミルの思想
第2節 ナショナリズムの統一運動と民族自決権の思想
第3章 民主主義観の転換とナショナリズムの暴走
第1節 第二帝政期ドイツとヴェーバーの思想
第2節 ワイマール期ドイツとカール・シュミットの思想
第3節 民族自決権の適用とその帰結
第4章 民主主義の再検討とナショナリズムの封じ込め
第1節 全体主義批判と民主主義論の再構築
第2節 民族自決権の受容と回帰
結び 冷戦終結後の民主主義とナショナリズム
あとがき

自由意志の向こう側 決定論をめぐる哲学史
講談社選書メチエ
人間は遺伝子に操られているのか?
宇宙開闢の時点で、その後の出来事は一通りに決まっていたか?
運命はあるのか?
人間と機械は何が違うのか?
こうした疑問はすべて人間の自由意志の問題であり、
デモクリトスからスピノザ、デネットまで、
決定論の哲学史に刻まれている。
ダーウィンや神経科学など自然科学的観点も検討しつつ、
決定論のこれまでとこれからを考える。

南極ダイアリー
講談社選書メチエ
棚氷の崩壊、氷河の後退、上昇する海水温……。南極大陸と南極圏の島々では、自然環境と生態系の変化が複雑に絡み合い、予想外の事態が次々と起こっている。
荒れ狂うドレーク海峡の先にある南極の“日常”を二〇年にわたり撮り続けた写真家は、何を見て、聴いて、嗅いで、触れたのか。
五感による、未知なる大地の記録!
深夜2時、白夜にうかぶペンギンのシルエット。
深く厚い氷の下のカラフルな海の表情ーー。
温暖化で変わりゆく南極の動物たちや景色を
貴重な写真120点とともに描写する。
カラー口絵32ページつき
はじめに
第一章 温暖化の波のなかで――南極半島
第二章 南大洋に浮かぶ生きものたちの楽園ーーサウスジョージア島
第三章 コウテイペンギンの国ーーロス海、ウエッデル海の奥懐へ

イスラエルの起源 ロシア・ユダヤ人が作った国
講談社選書メチエ
「イスラエル」は、どんな国でしょうか? 中東でよく戦争をしている、小国だが強大な軍事力をもっている、と思う人もいるでしょう。一方、スティーヴン・スピルバーグ監督の映画『シンドラーのリスト』(1993年)を思い出しながら、長らく迫害されてきたユダヤ人がナチスによるホロコーストの末、ついに作り上げた国と考える人もいるかもしれません。
迫害されてきたかわいそうなユダヤ人が念願かなって作った国、しかしアラブ人(パレスチナ人)を迫害している攻撃的な国――このような対極的なイメージは、いかにして生まれてきたのか。本書は、この謎に迫ります。
ホロコーストがイスラエル建国の大きな後押しになったことは間違いないとしても、そのことはイスラエルの軍事的な志向性を説明しません。さらに歴史を遡ると、19世紀後半からユダヤ人が変化していったこと、それが「国家」による自衛を求める動きにつながっていったことが明らかになります。そこで重要な役割を演じたのが、ロシア人でした。
その具体的な動きを追っていくために、本書はまずロシアのリベラリストに注目します。民族の自由を訴え、それゆえユダヤ人の同化にも反対したマクシム・ヴィナヴェル(1862-1926年)の活動を追っていくとき、パレスチナにユダヤ人国家を作ることを目指すシオニズムに共鳴したユダヤ人の中にも同じ主張をもつ者がいたことが分かります。その典型は、ダニエル・パスマニク(1869-1930年)に見られるものです。
ところが、1880年代にロシアで「ポグロム」と呼ばれるユダヤ人への迫害が始まると、ユダヤ人的側面とロシア人的側面を共存させていたロシアのユダヤ人たちは、徐々にユダヤ的側面に特化していきます。そのときユダヤ人たちがもったのが、ロシアの近代化に寄与してきたユダヤ人は「西洋的」だが、ロシアはそれに対立する「東洋的」な性格を持ち続けている、という認識でした。「東洋的」なロシアによって「西洋的」なユダヤ人が苦境に陥ったとき、「西洋的」な国家はユダヤ人を助けない──その経験は、やがてイスラエルが建国され、アラブ人の暴動が起きたとき、同じ構図をユダヤ人の中に想起させるのです。
『ロシア・シオニズムの想像力』で高い評価を受けた気鋭の研究者が巨大な問いに挑む渾身の論考。現代世界を読み解く手がかりが、ここにあります。
[本書の内容]
序 章 二種類のユダヤ人
第一章 内なる国際関係
第二章 ユダヤ人とロシア帝国
第三章 「ロシア・ユダヤ人」の興亡
第四章 ファシズムを支持したユダヤ人
第五章 民族間関係の記憶
第六章 相補関係のユダヤ化
終 章 多面的な個が民族にまとまるとき

手の倫理
講談社選書メチエ
人が人にさわる/ふれるとき、そこにはどんな交流が生まれるのか。
介助、子育て、教育、性愛、看取りなど、さまざまな関わりの場面で、
コミュニケーションは単なる情報伝達の領域を超えて相互的に豊かに深まる。
ときに侵襲的、一方向的な「さわる」から、意志や衝動の確認、共鳴・信頼を生み出す沃野の通路となる「ふれる」へ。
相手を知るために伸ばされる手は、表面から内部へと浸透しつつ、相手との境界、自分の体の輪郭を曖昧にし、新たな関係を呼び覚ます。
目ではなく触覚が生み出す、人間同士の関係の創造的可能性を探る。

快楽としての動物保護 『シートン動物記』から『ザ・コーヴ』へ
講談社選書メチエ
ペットと家族同然に暮らしている人はもちろん、テレビやネットで目にする動物の映像を見てかわいらしく感じたり、絶滅が危惧される動物や虐待される動物がいることを知って胸を痛めたりする私たちは、動物を保護するのはよいことだと信じて疑いません。しかし、それはそんなに単純なことでしょうか――本書は、このシンプルな疑問から出発します。
子供の頃、挿絵が入った『シートン動物記』をワクワクしながらめくった記憶をもっている人でも、作者のアーネスト・T・シートン(1860-1946年)がどんな人なのかを知らない場合が多いでしょう。イギリスで生まれ、アメリカに移住してベストセラー作家となったシートンは、アメリカではやがて時代遅れとされ、「非科学的」という烙印を捺されることになります。そうして忘れられたシートンの著作は、しかし昭和10年代の日本で広く読まれるようになり、今日に至るまで多くの子供が手にする「良書」の地位を確立しました。その背景には、シートンを積極的に紹介した平岩米吉(1897-1986年)という存在があります。
こうして育まれた日本人の動物観は、20世紀も末を迎えた1996年、テレビの人気番組の取材で訪れていたロシアのカムチャツカ半島南部にあるクリル湖畔でヒグマに襲われて死去した星野道夫(1952-96年)を通して鮮明に浮かび上がります。この異端の写真家は、アラスカの狩猟先住民に魅了され、現地で暮らす中で、西洋的でも非西洋的でもない自然観や動物観を身につけました。それは日本人にも内在している「都市」の感性が動物観にも影を落としていることを明らかにします。
本書は、これらの考察を踏まえ、2009年に公開され、世界中で賛否両論を引き起こした映画『ザ・コーヴ』について考えます。和歌山県太地町で行われてきた伝統的なイルカ漁を告発するこのドキュメンタリーは、イルカを高度な知性をもつ生き物として特権視する運動と深く関わるものです。その源に立つ科学者ジョン・カニンガム・リリィ(1915-2001年)の変遷をたどるとき、この映画には異文化衝突だけでなく、近代の「動物保護」には進歩主義的な世界観や、さらには西洋的な人種階層のイデオロギーが反映されていることが明らかになります。
本書は、動物を大切にするというふるまいが、実は多くの事情や意図が絡まり合った歴史を背負っていることを具体的な例を通して示します。一度立ち止まって考えてみるとき、本当の意味で動物を大切にするとはどういうことかが見えてくるでしょう。
[本書の内容]
はじめに
序 論――東西二元論を越えて
第I章 忘れられた作家シートン
第II章 ある写真家の死――写真家・星野道夫の軌跡
第III章 快楽としての動物保護――イルカをめぐる現代的神話
おわりに

大仏師運慶 工房と発願主そして「写実」とは
講談社選書メチエ
鎌倉時代の大仏師、運慶とはいかなる存在だったのか。
定朝を祖とする正系仏所三派中の奈良仏師に連なる運慶。
朝廷・幕府という二元的権力構造による時代の大きな変動期、
院・天皇・将軍・御家人など各種パトロン層の依頼を受けて
東大寺・興福寺の復興、円成寺・願成就院などの様々な造像に
関わった実情と、工房主宰者としての実力とは?
後に「霊験仏師」「天才」とも冠されることになる運慶の実像に迫る。

黄禍論 百年の系譜
講談社選書メチエ
アメリカが取り憑かれ続けてきた強迫観念―「アジア人が攻めてくる!」
中国が日本と結び、西洋世界へと牙を剥く。驚異的な人口のパワーに、欧米は飲み込まれてしまう……
こうした「黄色い禍」という強迫的観念は、日露戦争で日本がロシアに勝利したことをきっかけに生まれた。
そしてこの「人種主義的思考」は、西海岸に多くの日系移民が押し寄せたアメリカにおいてはとりわけ強く刻まれ、形を変えながら現在に至るまで、社会・政治のなかに脈々と息づき続けている。
「我々は白人種と交わることのない人々から同質な人々を作り出すことはできない」
―ウィルソン(第28代米大統領・国際連盟提唱者)が署名したアジア人移民排斥を訴える文書
「黒人はアフリカに、黄色人はアジアに、そして白人はヨーロッパとアメリカにいるべきだと強く思うんだ」
―トルーマン(第33代米大統領)が妻に送ったラブレター
コロナ禍によって黄禍論的思考はいまだ欧米社会に根を張っていることが明らかとなり、アメリカでは人種をめぐる対立がいまもってなお深刻であることが露となったいま、トランプ大統領を生み出したアメリカ社会に100年以上根づく「人種主義的思考」の歴史をひもとかなければならない。
【本書の内容】
東洋人の群れ ―「日中同盟」の悪夢
幻の「人種平等」 ―国際連盟設立と人種差別撤廃案、そして排日移民法
汎アジア主義の興隆と破綻
戦争と人種主義
消えない恐怖 ―冷戦下の日米関係
よみがえる黄禍論

シルクロード世界史
講談社選書メチエ
かつて、「歴史」を必要としたのは権力者だった。権力者は自らの支配を正当化するために歴史を書かせた。歴史家は往々にして、権力者に奉仕する者だったのである。しかし、近代歴史学の使命は、権力を監視し、批判することにこそある。近代世界の覇権を握った西洋文明を相対化し、西洋中心史観と中華主義からの脱却を訴える、白熱の世界史講座。
近代以前の世界では、中央ユーラシア諸民族の動向が、歴史を動かしていた。騎馬遊牧民はどのように登場し、その機動力と経済力は、いかに周辺諸国家に浸透していったのか。シルクロードのネットワークを媒介とした「前近代世界システム論」とは。ソグド人やウイグル人のキャラバン交易や、キリスト教の最大のライバルだったマニ教の動向などを、ユーラシア各地に残る古文書、石碑の読解から得たオリジナルな研究成果をもとに解明していく。そこから見えてくるのは、あらゆるモノは歴史的所産であり、文化・言語・思想から、政治・経済活動まで、すべては変化し混ざり合って生み出され、純粋な民族文化や普遍的な国家など存在しない、という真実である。さらに、近年日本で発見されて世界的な注目を浴びるマニ教絵画から、日本伝来の史料で明らかになるシルクロードの実像まで。「興亡の世界史」シリーズ最大の話題作『シルクロードと唐帝国』の著者による、待望の書下ろし。

ドゥルーズとガタリの『哲学とは何か』を精読する 〈内在〉の哲学試論
講談社選書メチエ
ドゥルーズとガタリによる最後の共著『哲学とは何か』。難解をもって知られるこの著作をどう読んだらいいのか。
読解のため、本書では大きく三部で構成される。
第一部では、ドゥルーズとガタリの〈内在〉概念とはどのようなものかを明らかにする。単に内在と超越という二項対立ではなく、彼らが「内在野」と名指ししたものは何だったのか。スピノザ、ベルクソンなども参照しつつ、その形成過程を明らかにしていく。
第二部では、哲学・科学・芸術の三つを同じ形式をもったものとして、あえて並列に描こうとしたドゥルーズとガタリの意図に分け入っていく。そこから「脳」と「カオス」が析出される次第は、まさに『哲学とは何か』を解読する重要な準備となる。
第三部では、いよいよ『哲学とは何か』をきわめて精密に読み解く。各章に概要、用語、読解の見出しを立て、まさに一字一句を読んでいく。その先に見えてくる〈内在〉の哲学とは?

「人間以後」の哲学 人新世を生きる
講談社選書メチエ
21世紀に入ってから、以前にもまして人類は、大地震、台風、集中豪雨などの自然災害に遭い、今また新しいウイルスとの共存という課題を目の前にしている。もちろん、日本も例外ではない。
ここに出現しようとしているのは、私たちが今まで意識することなく当たり前に存在することを前提にし、その中で生きていると思ってきた「世界」が根底から崩れ去ろうとしている状況ではないだろうか。その認識が示されているのが、2000年に提唱された地質時代の区分である「人新世」だろう。これは人類の著しい発展の末、地球規模の環境変化がもたらされる時代として定義される。そこでは、今まで当たり前だった世界は、まったく当たり前ではなくなる。
だが、そんな来たるべき時代にはどのような世界が出現するのか、そしてその世界の中で人間が「人間」であるための条件とは何か、そのとき私たちは何を拠り所にして生きていけばいいのか、といったことは、まだ問われ始めたばかりである。ドイツの哲学者マルクス・ガブリエル(1980年生)の名を知らしめた著作の表題になっている『なぜ世界は存在しないのか』という問いは、その一つの試みだと言うことができる。
本書は、ガブリエルのほか、近年日本語への翻訳が相次いでいる、カンタン・メイヤスー(1967年生)、ティモシー・モートン(1968年生)、グレアム・ハーマン(1968年生)といった1960年代生まれの哲学者たちを簡便に紹介しつつ、その思想を正面から検討し、日本の状況と照らし合わせる中で、これから先の世界と人間をめぐるさまざまな問いに答える方法を提示するものである。哲学・思想のみならず、建築や現代美術、演劇といった芸術の世界とも深くコミットしてきた著者が渾身の力を込めて書き上げた本書は、これまでの集大成であるとともに、「その先」に見える可能性を指し示すものにもなっている。
現代哲学の優れた概説書である本書が、同時に「予言の書」でもあることは、今後の時間の中で証明されることだろう。誠実に思索したいと思うすべての人に捧げる。
[本書の内容]
プロローグ
第1章 世界の終わり?
第2章 世界形成の原理──ガブリエルとメイヤスー
第3章 人間から解放された世界──ティモシー・モートン
第4章 「人間以後」の哲学──グレアム・ハーマン
第5章 人間の覚醒――柄谷行人
第6章 地下世界へ──フレッド・モーテン
第7章 新しい人間の条件──アーレントからチャクラバルティへ
エピローグ

笑いの哲学
講談社選書メチエ
笑いについての考察は古来さまざまに試みられてきた。西洋哲学においては笑いの底に人間の「突然の得意=優越感」あるいは「小心さ」を見た。また「笑いの空間」と「差別の空間」が重なり合うところで起きていることも意識されてきた。
では、笑いという現象を解く一個の原理があるのだろうか。
笑いとは平穏な日常の破裂である。独特の状況や人間関係のなかから生まれる。また、笑いとは生ものである、刹那的である等々、笑いという現象はいろんな側面からその特徴を見出すことができる。
本書では西洋哲学の知見から現代日本における「お笑い」さらに広く芸術まで、笑いの現場を視野に入れつつ秩序、掟への揺さぶりとしての笑いの可能性を縦横に考察する。

とうがらしの世界
講談社選書メチエ
いつ、日本に伝わったのか? なぜ、辛いのか?
辛いししとうと、辛くないししとうの違いとは?
ダイエットの効果はあるのか?
「辛い」というよりも「臭い」ハバネロ、「ネズミの糞」の名を持つ激辛種・・・。
知れば知るほど汗が出る。科学と食文化の両面から、世界のトウガラシを挟み撃つ、刺激的な「食の教養」!
第一部では、食用トウガラシの起源から、たくさんの種類、辛さの秘密、トウガラシでのダイエットまで、「トウガラシの基礎知識」を解説。
第二部は、トウガラシの故郷・中南米のハバネロに代表される激辛料理に始まり、スペイン、イタリア、東欧などのヨーロッパの郷土料理、さらにアフリカ、インド、タイ、中国、韓国・・・などなど、「世界一周トウガラシ紀行」。そして、実は豊かな日本の「唐辛子文化」を京都、信州はじめ各地に訪れる。

贈与の系譜学
講談社選書メチエ
何かを贈ること、プレゼントすることは、日常誰もが行っている。本書は、この「贈与」という行為に注目し、それがどこから生まれ、どのような機能をもってきたのかを探り、いかに人間の本質と結びついているのかを明らかにする。
贈与の起源を遡れば、それは〈宗教的なもの〉の発生と不可分だと考えられる。みずから働いて産み出した富――遊牧民や牧畜民なら羊など、定住農耕民なら小麦や葡萄などを「犠牲(サクリファイス)」として神々や精霊に捧げること。そこには祝祭の空間が生まれ、やがてそれは共同体を支える制度となった。これは現在も「祭り」として目にすることができる。
一方で、贈与は他の人に何かをプレゼントすることとしても現れる。歴史を振り返ると、その源には窮境にある人に自分の富や財産を贈る行為がある。これは今も「寄付」などの行為に見られるものであり、美徳とみなされることが多い。
このように、太古の昔から現代に至るまで、人間は贈与という行為に価値を見出してきた。では、なぜ贈与には価値があるのかといえば、自分にとって大事なものを手放して与える行為だからである。ところが、誰にとっても最も大事なものとは何かといえば、自分に固有のもの、自分の唯一のものだが、それは手放してしまえば自分が自分でなくなるものであり、つまりは原理的に贈与できないものだと言わざるをえない。これを逆から見れば、贈与できるものとは「交換可能なもの」であることになる。それゆえ、いかなる贈与も時間が経つうちに「見返り」を暗に要請するものとなり、「交換」になってしまう。
だとすれば、純粋な贈与とは不可能なのか。不可能だとすれば、そもそも贈与という行為の価値そのものが揺らいでしまうのではないか――。
本書は、数々の定評ある著作をものしてきた著者が長年にわたって取り組んできたテーマを正面から取り上げた、「集大成」と呼ぶべき渾身の論考である。今失われつつある「思考すること」の真の姿が、ここにある。
[本書の内容]
第I章 古代思想における〈正しさ〉
第II章 初期キリスト教における〈正しさ〉
1 神との内的関係を重く見ること
2 カントの実践哲学
3 キリスト教に対するニーチェの評価と批判
第III章 原初の社会における贈与的ふるまい
1 〈贈与というかたちを取る〉物の交流・交易
2 贈与的なふるまいの両義性
3 贈与的次元を含む運動、それを打ち消す動き(再-自己所有)
第IV章 贈与をめぐる思索
1 贈与的ふるまい
2 贈与、サクリファイスと模擬性=反復性
3 苦難の時そのものが新たに、未知なるものとして生き変わること
4 不可能なものという試練

山に立つ神と仏 柱立てと懸造の心性史
講談社選書メチエ
柱を立てるとはどういう行為だったのか。神を祀り天と地の通路を探った古代人の憧憬は、高く太い柱を求め、やがて神仏の近くへと山に分け入っていく。
山中に見出される聖なる岩座、そこに建てられる堂舎は懸造と呼ばれ、人々が観音や権現に伏し、籠もり、苦修錬行する拝所となる。
岩、岩窟、湧水に神仏を感じ霊験を求める日本人、形としての山岳建築に、浄所への畏敬と崇拝の心性を読む。

ストリートの美術 トゥオンブリからバンクシーまで
講談社選書メチエ
ストリートアートとは何か。 サイ・トゥオンブリから、路上に名前をかき、消され、かき換え、かき換えられる街中のエアロゾル・ライティングへ、そして匿名作家バンクシーの作品まで。都市、美術、ストリートの三つの切り口から、さまざまな作家、作品を参照し、ストリートの表現とその魅力について語る。

「心の哲学」批判序説
講談社選書メチエ
認知科学、神経科学の隆盛によって、
あらためて注目を浴びる「心の哲学」は、
奇妙な主張をしている。
「意識は物質世界の一領域である」
「意識は自由な意思決定能力をもたない」
本書はこういった議論に真っ向から対峙する。
現象学的立場と進化論的議論から、
心理学的意識と現象学的意識の
本質、起源、その有用性の検証へ――。
繊細にして雄大な、意識世界を辿る。
目次
第一部 「心の哲学」との対決
序 可能性の議論への違和感
第一章 意識は無用か
第二章 意識の有用性
第三章 心は物質に宿る──スーパーヴィニエンス──
第四章 運命を知りえぬことが、自由を私たちに残さないか
第五章 意識は瞬間ごとに死ぬ?──ひとつの懐疑──
第六章 意識とは誤解の産物である──消去主義の検討──
第七章 「物理世界は完結し、心の働きかけを許さない」と言えるのか
二部 意識は本当はどういうものか
第八章 意識の実像──ふたつの実存とふたつの視覚経路──
第九章 実践的意識が見る世界
結論

アガンベン 《ホモ・サケル》の思想
講談社選書メチエ
イタリアの思想家が注目を浴びるようになって、すでに久しい。中でも世界の思想を中心で牽引してきたのが、ジョルジョ・アガンベン(1942年生)である。そして、今日に至るまで多数の著作をコンスタントに発表し続けてきたアガンベンの代表作が《ホモ・サケル》と題された全4巻計9冊に及ぶプロジェクトであることに異論はないだろう。その構成は、以下のとおりである。
I『ホモ・サケル』1995年(邦訳:以文社)
II-1『例外状態』2003年(邦訳:未来社)
2『スタシス』2015年(邦訳:青土社)
3『言語活動の秘跡』2008年
4『王国と栄光』2007年(邦訳:青土社)
5『オプス・デイ』2012年(邦訳:以文社)
III『アウシュヴィッツの残りのもの』1998年(邦訳:月曜社)
IV-1『いと高き貧しさ』2011年(邦訳:みすず書房)
2『身体の使用』2014年(邦訳:みすず書房)
1995年から2015年まで、実に20年をかけて完結したこのプロジェクトは、いったい何を目指したのか? 日本語訳も残すところ1冊となったいま、《ホモ・サケル》に属する4冊のほか、アガンベンの翻訳を数多く手がけてきた著者が、その全容を平明に解説する。
プロジェクトの表題として掲げられた「ホモ・サケル(homo sacer)」とは、ローマの古法に登場する、罪に問われることなく殺害でき、しかも犠牲として神々に供することのできない存在のことである。ミシェル・フーコーが「生政治(biopolitique)」と名づけて解明に着手したものの完遂することなく終わった問いを継承するアガンベンは、この「ホモ・サケル」に権力の法制度的モデルと生政治的モデルの隠れた交点を見る。裸のまま法的保護の外に投げ出された「ホモ・サケル」の「剥き出しの生(la nuda vita)」の空間が政治の空間と一致するようになり、排除と包含、外部と内部、ビオスとゾーエー、法権利と事実の区別が定かでなくなること――それが近代における政治の特徴にほかならない。
現在進行形の重大な問いを壮大な思想史として描き出した記念碑的プロジェクトは、われわれにとって尽きせぬヒントにあふれている。その最良の道標となるべき1冊が、ここに完成した。
[本書の内容]
プロローグ アガンベンの経歴
第I章 〈閾〉からの思考
第II章 証 言
第III章 法の〈開いている〉門の前で
第IV章 例外状態
補論 「夜のティックーン」
第V章 オイコノミア
第VI章 誓言と任務
第VII章 所有することなき使用
第VIII章 脱構成的可能態の理論のために
エピローグ 「まだ書かれていない」作品

詩としての哲学 ニーチェ・ハイデッガー・ローティ
講談社選書メチエ
プラトンによれば、ソクラテスは、「……とは何か」と問うた。「正義とは何か」「美とはなにか」。真理を捉えるための「知性」や「理性」を最も重要な心の働きとする西洋哲学の伝統が、ここから生まれた。
これに対して、本書は、「想像力」を優位におく思想に着目する。イギリスのロマン主義者からはじまって、アメリカのエマーソンに継承され、ニーチェ、ハイデッガー、ローティにつながる系譜である。
真理は定まっていて、「理性」や「知性」は、それをあるがままに捉える能力だとするのが、プラトン的「理性主義」だとすれば、「想像力」とは、新たな見方、捉え方を創造する力である。これをローティは、「詩としての哲学」と呼んだ。
デカルト、カントなど、理性主義の変遷をも検証しつつ、「詩としての哲学」の可能性を問う力作。