講談社学術文庫作品一覧

近世日本国民史 堀田正睦(三) 朝幕背離緒篇
講談社学術文庫
安政四年十月、ハリス江戸入府、堀田正陸と会見、懸河の弁を振って開国貿易の利を説く。他方、松平慶永はハリス問題を好機とし、一橋擁立を解決すべく橋本左内含めて京都を誘導。堀田は長崎で日蘭・日露の条約追加調印、江戸ではハリスの将軍謁見、国書捧呈の段取りを進めるなど対外施為に間然するなきも、ハリス出府に伴う水戸・尾張の反対は、江戸の不一致を暴露、京都の関東に対する姿勢は徐々に強化、朝幕背離の形勢を醸す。

近世日本国民史 堀田正睦(二) 公武合体篇
講談社学術文庫
安政三年七月、米国総領事ハリス下田に入港、居催促の体をなして通商条約を迫る。外交すこぶる切迫、時の名宰相阿部正弘は開明派堀田正陸を老中首座に迎え、外国御用懸に任じこの難局に当たらしめ、自らはその力を専ら内国に用い、公武合体として国論統一を試みんとす。時に将軍継嗣問題起り、内外の政局蜂巣を突き破らんとする様相を呈し始むる折、阿部、不惑に達せずして逝き、堀田は一人にて内外の衝に当たらねばならなかった。

近世日本国民史 堀田正睦(一) 孝明天皇初期世相篇
講談社学術文庫
黒船の来航は幕府封建制度崩壊を促し、中央統制系も頽弛は、雄藩の自主・独立的態度を明確にならしめ、対立、対抗、やがて対戦への趨勢を来すも、外間の風雨に打たれ、雪霜に晒された国民的自覚は、各藩連盟の機運を醸成、天下有志士の交通は次第に頻繁、隠然の裡に新組織へ胎動。かかる情勢下、維新気分旁魄せる少年子弟が、松下村塾で先生と講習討論を始めるたるごとく、日本各地に回天の原力が育ちつつあった。
黒船の来航は幕府封建制度崩壊を促し、中央統制系も頽弛は、雄藩の自主・独立的態度を明確にならしめ、対立、対抗、やがて対戦への趨勢を来すも、外間の風雨に打たれ、雪霜に晒された国民的自覚は、各藩連盟の機運を醸成、天下有志士の交通は次第に頻繁、隠然の裡に新組織へ胎動。かかる情勢下、中国西端の辺陬の地に、維新気分旁魄せる少年子弟が、松下村塾で先生と講習討論を始めるたるごとく、日本各地に回天の原力が育ちつつあった。

南方熊楠 地球志向の比較学
講談社学術文庫
南方熊楠は、柳田国男とともに、日本の民俗学の草創者である。この二人は、その学問の方法においても、その思想的出自と経歴においても、いたく対照的なのである。日本の学問のこれからの創造可能性を考えるために、この二つの巨峰を、わたしたちはおのれの力倆において、登り比べてみることは役に立つであろう。そうした意味で、微力ながら、これはわたしの南方登攀記の発端である。(著者まえがきより)〈昭和54年度毎日出版文化賞受賞作〉

西国立志編
講談社学術文庫
原著『自助論(セルフ・ヘルプ)』は、世界10数ヵ国語に訳されたベストセラーの書。日本では明治4年、『西国立志編』として中村正直により翻訳刊行された。「天は自ら助くる者を助く」という独立独行の精神を思想的根幹とした、欧米史上有名な300余人の成功立志談である。この自助精神は、近代国家と資本主義の形成期にあって、新しい日本と自分の前途に不安を抱いていた多くの青少年に希望の光明を与えた。福沢諭吉の『学問のすゝめ』と共に、明治の2大啓蒙書。

近世日本国民史 織田信長(3)
講談社学術文庫
天生十五年五月、光秀、愛宕山西坊にて連歌興行。「ときは今あめが下知る五月哉」の発句を神前に籠置き、謀反を決意、六月朔日、信長を本能寺に弑す。―すでに勝頼は武田譜代の面々に見捨てられ、天目山に自刃。家康は安士に参礼の後、大坂、堺に遊ぶ。中国征伐に出陣中の秀吉は鳥取城を抜き、高松城を眼前にして毛利の大軍と対峙―今や信長の勢威漸く四方に及び、天下統一の正に成る寸前の変。時に信長五十歳炎の生涯を遂ぐ。
天生十五年五月二十八日、光秀、愛宕山西坊にて連歌興行。「ときは今あめが下知る五月哉」の発句を神前に籠置き、謀反を決意、六月朔日、信長を本能寺に弑す。―すでに勝頼は武田譜代の面々に見捨てられ、天目山に自刃。家康は安士に参礼の後、大坂、堺に遊ぶ。中国征伐に出陣中の秀吉は鳥取城を抜き、高松城を眼前にして毛利の大軍と対峙―今や信長の勢威漸く四方に及び、天下統一の正に成る寸前の変。時に信長五十歳炎の生涯を遂ぐ。

大鏡 全現代語訳
講談社学術文庫
平安朝期、藤原氏栄華の世界の男の生きざまを、男の手によって内部告発的に描き出した異色の歴史文学作品。叙述は紀伝体であるがそれが却って登場人物の性格を特徴的に捉え、あざやかな人物像を照し出し、四人の話者の語り口と相まって、歴史の見方のとかく片寄りがちな弊を巧みに避け得て、謀略的事件の真相を伝えている。歴史の鏡に写る当代一七六年間の登場者にあびせる真実と讃美と批判のはざまに、和泉式部紫式部も顔を出す。

近世日本国民史 織田信長(2)
講談社学術文庫
天正三年五月、織田徳川連合軍は長篠において武田軍と対陣。死なせる信玄、生ける信長を走らすか。勝頼もとより勇者にして軍事巧者たるも、信玄遺将を統率する能わず、ただ武田嫡々相伝の御旗・無楯にこの一戦必勝を誓う。対する信長は鉄砲の威力を最善に利用したる斬新戦術を用い、甲斐の常勝軍を大破、背後の憂を断ち、時代の主人公となるも、一敵減ずれば一敵生ず、毛利氏と本願寺は鎌信の入洛を急ぐなど、信長の覇図なお多難。

森鴎外の『知恵袋』
講談社学術文庫
自分が先ず自分を信ずることだ。それがあって初めて他人が信頼を寄せてくれるようになる。一たん自信がぐらついて、表情に覚束なさが表れるや否や、他人はたちまち寄りつかなくなる。顔に出た自信喪失の表情はカインの額につけられた罪のしるしと同じことだ。
他人から愛されたいと思ってもそれは此方の自由になることではない。愛されるのが不可能ならせめて畏れられるがよい。これもまた一つの交際法上の要訣である。(本文より)

古事記(中)
講談社学術文庫
古事記の中巻下巻は、上巻の神話をうけて、神話と歴史とをつなぐ伝説を記した巻である。古事記の文学性は、主に中巻下巻の伝説に認められる。中巻では、垂仁天皇の皇后サホビメの苦悩の物語に、夫婦の情愛がみごとに描かれており、ヤマトタケルの命の悲劇的生涯を語る伝説には、英雄の末路があわれ深くロマンチックに描かれている。古事記の伝説には、史実と認め難いものが多く、古事記が文学的作品といわれているのもこのためである。

明恵上人伝記
講談社学術文庫
華厳中興の祖といわれる明惠上人は、教団を組織せず、終身釈迦を父と仰ぎ、自ら遺子と称された。上人の法話は「悪人なお隠れたる徳あり、況や一善の人に於てをや」と差別がなく、人はただ「あるべきやうは」の7字を心懸ければ世の中に悪いことはあるはずがない、と温順な言葉で説かれている。が、この一見やさしい教えの数々が、実は華厳哲学と美しく冥合して輝かしい光を放つ。本書は、その上人の伝記を歴史の大局から見た注釈書。

近世日本国民史 織田信長(1)
講談社学術文庫
応仁の大乱は群雄割拠の戦国乱世を現出。毛利・北條・上杉・武田・今川いずれかが天下の覇者たるか。時に尾張に織田信長あり、西上する今川軍を桶狭間に破り、名を満点下に広告。家康期せずして岡崎城主となる。信長畿内を平定、天下布武の第一着を印す。将軍義昭、浅井・朝倉らに密旨を送り、信長珠伐を画し姉川戦を惹起、信玄また中原を望み遠・参を侵掠せんとし、三方原合戦に臨み病に斃る。近世的統一国家の曙光の幕が開く。
応仁の大乱は群雄割拠の戦国乱世を現出。毛利・北條・上杉・武田・今川いずれかが天下の覇者たるか。時に尾張に織田信長あり、西上する今川軍を桶狭間に破り、名を満点下に広告。家康期せずして岡崎城主となる。信長畿内を平定、天下布武の第一着を印す。将軍義昭、浅井・朝倉らに密旨を送り、信長珠伐を画し姉川戦を惹起、信玄また中原を望み遠・参を侵掠せんとし、三方原合戦に臨み病に斃る。ここに近世的統一国家の曙光の幕が開く。

旧約聖書名言集
講談社学術文庫
旧約聖書は、イスラエル人の歴史の大河ドラマであるとともに、「いのちのことば」をしるした書である。本書は、旧約聖書から珠玉の名言・名句を選び出し、それらを歴史の流れに沿ってドラマチックに構成した格好の旧約入門書。アブラハムやモーセの信仰、『詩篇』にうたわれた愛、『箴言』にみられる戒めや知恵などは、現代の読書に生きる指針を与える。これらの聖句を通して、神とともに生きる幸せを語りかける意欲的書き下ろし。

近世日本国民史 西南の役(七) 西南役終局篇
講談社学術文庫
田原坂の激闘以後、転戦しつつ敗走せる薩軍、城山に籠城。九月二十三日夜、西郷隆盛諸将を営中に招き訣別の宴を開く。翌払暁、四面の官軍総攻撃を開始、西郷らは洞窟を出でて岩崎谷へ向う。乱弾忽ち西郷傷つく。西郷、別府晋介を顧みて「晋殿、もうここでよか!」と。すなわち跪坐し、襟を正して東天を拝す。時に五十歳。戦治まり猛雨一陣、城山の戦血を一洗。後人曰く、「西郷永く死せず」と。ここに士族の時代はその終焉を告ぐ。

講孟箚記(下)
講談社学術文庫
「吾(われ)幽囚の罪人と雖(いえ)ども、悪んぞ国家の衰乱、夷狄(いてき)の猖獗(しょうけつ)を度外に置くを忍びんや」、国家の多難を前に、国の運命を担う責務から逃避する道はない。獄中にあれば獄中の人として、これに参ずる道を発見せずんば止まぬ21回猛士吉田松陰は、「余が一室に幽囚して、広大を致す如きは、学の力のみ」と、遂に『孟子』の全講を終えた。行動力の人であると同時に天性の教育家だった彼のこの情熱が『箚記』の紙表に溢れて、人の心を打つ。

勘の研究
講談社学術文庫
古来東洋においては、たとえば禅の悟りや剣法の極意、芸能における名人芸などにみられる、ある普遍的なものを「いわく言いがたし」とか「名状すべからず」とか称しつつ伝えてきた。本書において著者は、この普遍的な“何か”を「勘」という概念によって捉え、その学問的体系づけを試みている。本書は「勘」という前人未踏の研究領域における唯一の心理学的研究であり、日本人の精神の働きと構造を立体的に解剖した古典的名著である。

近世日本国民史 西南の役(六) 西南役両面戦闘篇
講談社学術文庫
熊本城を包囲して北上する薩軍と、籠城軍を授けんとする官軍が田原坂に激突。死闘実に十七日間、白兵戦が連日くり返され、両軍の死者数千を超え、屍山血河をなす。衆寡敵せず、敗れた薩軍は、川尻口、山鹿、向坂、萩迫、人吉へと転戦、力戦するも空しく、凄惨な敗走を強いらる。史家等しくこの役を保元乱に比較。官軍の将校中、西郷の息のかからぬ者はなく、日本史に特筆される田原坂の激戦は酸鼻を極めるものであった。
熊本城を包囲して北上する薩軍と、籠城軍を授けんとする官軍が田原坂に激突。死闘実に十七日間、抜刀隊による白兵戦が連日くり返され、両軍の死者数千を超え、屍山血河をなす。衆寡敵せず、敗れた薩軍は、川尻口、山鹿、向坂、萩迫、人吉へと転戦、力戦するも空しく、凄惨な敗走を強いらる。史家等しくこの役を保元乱に比較。官軍の将校中、西郷の息のかからぬ者はなく、日本史に特筆される田原坂の激戦は酸鼻を極めるものであった。

大日本人名辞書(5)
講談社学術文庫
本書は明治十九年に初版刊行以来、学者や専門家だけでなく、広く一般教養人に支持されて多くの版を重ね、更に増訂を繰り返し、不朽の名辞典として定評を得た。遠く記紀神話の神々から昭和初年の重要人物まで、日本歴史上の主要人名は完全網羅。ことに古今の文献を博捜した精細な記事は、読んでおもしろいとの評判を呼んだ。さらに本最終巻には名家系譜・歴史年表・刀剣鍛冶叢伝など他に類を見ない貴重な歴史資料をも収録した。

大日本人名辞書(4)
講談社学術文庫
「明治文化の黎明期にあって、此の書を得たる吾人は、恰も暗夜に橙火を得たるが如く、政治家・学者・武人・美術家・工芸家等、歴史上の人物は容易に検索せられ、然かも風貌を髣髴せしめて、学界に稗益するところ頗る大いなるものがあった。(三度目の補訂が)昭和十一年晩冬に至って完了し、収録された人物は益々広汎となり、記事は愈々精密を加え、ここに面目を一新して世に公にするに至ったことは、学界の一大福音である」
「明治文化の黎明期にあって、此の書を得たる吾人は、恰も暗夜に橙火を得たるが如く、政治家・学者・武人・美術家・工芸家等、歴史上の人物は容易に検索せられ、然かも風貌を髣髴せしめて、学界に稗益するところ頗る大いなるものがあった。(三度目の補訂が)昭和十一年晩冬に至って完了し、収録された人物は益々広汎となり、記事は愈々精密を加え、ここに面目を一新して世に公にするに至ったことは、学界の一大福音である」(藤村作氏序文より)

大日本人名辞書(3)
講談社学術文庫
「明治十七年十二月、田口先生年歯三十歳にして大日本人名辞書の編集に着手し、同十九年四月、その刊行を見たものである。この独創的一大人名辞書が、当時なお幼稚であった我が学界に与えたる衝撃と利便とは、天来の福音であったことは、固より言うまでもない。校訂新版の増補に関しては、各自専門大家の分担執筆を請い、刻苦勉励の末、字数概算二百万字を加え、総頁数四千頁、実に浩瀚無比の一大人名辞書が現出した」
「明治十七年十二月、田口先生年歯三十歳にして大日本人名辞書の編集に着手し、同十九年四月、その刊行を見たものである。この独創的一大人名辞書が、当時なお幼稚であった我が学界に与えたる衝撃と利便とは、天来の福音であったことは、固より言うまでもない。校訂新版の増補に関しては、各自専門大家の分担執筆を請い、刻苦勉励の末、字数概算二百万字を加え、総頁数四千頁、実に浩瀚無比の一大人名辞書が現出した」(新訂版序文より)