講談社選書メチエ作品一覧

絶滅の地球誌
絶滅の地球誌
著:澤野 雅樹
講談社選書メチエ
この地球は今、絶滅の危機に瀕している。毎年5万種の生物が姿を消しているとも言われる現在、地球は六度目の「大絶滅」に突入している可能性が高い。その原因を探るために、一見して無関係に思える「核開発」という主題に取り組む本書は、やがて「ニュー・パンゲア(超大陸)」と呼ばれる現代世界の姿に突きあたり、究極の問いに出会う……。前代未聞のテーマに全身全霊を捧げた著者が現実を直視し、真に思考する驚愕の書! この地球は、今まさに絶滅の危機に瀕している──。 本書は、この紛れもない事実を直視し、人類の未来を思考しようとするものである。 地球という星は、これまで五回にわたる「大絶滅」を経験してきた。そして、多くの専門家たちが警鐘を鳴らしている。現在、地球は六度目の「大絶滅」に突入しつつある、と。ある研究者によれば、毎年5万種の生物が地球上から姿を消している、そんな前代未聞の事態が今まさに進行している。 その原因は何か? この問いに答えるために、著者は一見すると無関係な主題に向かっていく。それが「核開発」である。兵器としてのみならず発電のためにも使われる技術を、人間はいかにして生み出し、その現状はどうなっているのか。それを追求していくとき、「ニュー・パンゲア(超大陸)」と呼ばれる状態になった現代世界の姿に突きあたり、まさにその状態こそが「大絶滅」をももたらしているのではないか、という疑念がもたらされる。 では、どうすればよいのか? もしも処方箋を求めるなら、われわれは究極の問いに取り組まなければならないだろう。──「人間は人間自身を選別することができるのか? 生きてよい人間と生きなくてよい人間の分断線を引くことが人間にはできるのか?」 もちろん、簡単には答えられない。ことによると、誰にも答えられない問いかもしれない。だからといって現状を黙認すれば、無数の生物が姿を消し、憎悪を抱えたテロリストが生み出され続ける。 だからこそ、現実を直視すること。そして、むやみに絶望するのではなく、ただ愚直に思考すること。 本書は、前代未聞のテーマに全身全霊を捧げて取り組んだ著者からの、希望に満ちた贈り物である。
電子あり
異端カタリ派の歴史 十一世紀から十四世紀にいたる信仰、十字軍、審問
異端カタリ派の歴史 十一世紀から十四世紀にいたる信仰、十字軍、審問
著:ミシェル・ロクベール,訳:武藤 剛史
講談社選書メチエ
もともとは東欧発祥の宗教運動が、11世紀に西ヨーロッパで顕在化して、12世紀にはカタリ派の名の下で南仏ラングドックでおおきく展開されるようになりました。 現存しないためその教義などは謎に包まれていますが、二元論的であり、現世を悪とみなすグノーシスの影響を受けているとも言われています。 本書は、その異端宗教運動の11~14世紀の歴史、すなわち南仏での誕生・発展から異端認定を経て、迫害・殲滅されるまでの歴史を描きます。歴史の後半では、ローマ教会によるアルビジョワ十字軍と異端審問が大きなテーマとなります。南仏アルビ地方で展開された、もうひとつの十字軍のおぞましい実態も明らかにされます。 本書はまた、南仏のラングドックが、十字軍侵攻をきっかけに、だんだんとカペー朝フランス王国に併合されていく過程も描いています。 知られざる異端の経験した恐るべき歴史をあきらかにする、カタリ派研究の第一人者による最良の訳書がついに登場します。
ニッポン エロ・グロ・ナンセンス 昭和モダン歌謡の光と影
ニッポン エロ・グロ・ナンセンス 昭和モダン歌謡の光と影
著:毛利 眞人
講談社選書メチエ
昭和の初め、世に言うエロ・グロ・ナンセンス時代に大量に作られ消費された、あきれるほどバカバカしいがゆえに魅惑的なエロ歌謡群は、いつしか忘却の底に沈みました。まさに日本歌謡史におけるミッシング・リンクといってよいでしょう。エロで生れてエロ育ち、私しゃ断然エロ娘……などと歌い上げたそれらを拾い上げ、つなぎあわせ、戦前の日本人が感じたエロを、その誕生から滅亡までたどってみる……。それが本書の目論見です。 「昭和初期は暗い時代だった」というイメージには根強いものがあります。  ただ、戦前期の日本を暗黒だったと言いきれるかというと、そうでもありません。時代はつねに多面的で翳があれば光もあります。  昭和初期はエロ・グロ・ナンセンス時代とのちに言われるようになります。出版界や新聞紙面のエロの跋扈は、厳しい思想弾圧によって国民に不満や圧政感が溜まらないようにするためのガス抜きではないか、との観測は当時からあったにせよ、芥川龍之介の謂う「ぼんやりした不安」を裏返しにした刹那的な享楽主義を軍縮とリベラル思想が後押しして、時代は暗黒どころか軽佻浮薄をきわめたのです。  無責任にもほどがあるエロとジャズとゴシップの垂れ流し状態は誰にも手がつけられません。新聞もラジオもあわよくば享楽的な方向に流れよう流れようとする。そうした世相を写した流行小唄や映画主題歌が雲霞のごとく出現しました。 エロで生れてエロ育ち 私しゃ断然エロ娘  こんな歌が平然と歌われていたのです。主義や思想に敏感な学生を息子にもつ親もまた「テロよりはエロ」「赤色に染まるなら桃色のほうがマシ」などと言い出す始末。閉塞感のなかで必要以上にクローズアップされた“エロ”という概念があらゆる分野に浸透する……。  そもそもはやり唄とはどの時代にあっても世相を写すものですから、それはけっして珍しい現象ではないといえます。ただ、昭和初期がユニークなのは、その内容がエロに特化し、一時はレコード歌謡がエロ一色に塗り立てられたことにあります。  エロ・グロ・ナンセンス時代に大量に作られ消費されたエロ歌謡群は、いつしか忘却の底に沈みました。まさに日本歌謡史におけるミッシング・リンクといってよいでしょう。それらを拾い上げ、つなぎあわせ、戦前の日本人が感じたエロを、その誕生から滅亡までたどってみる……。それが本書の目論見です。
電子あり
ノーベル経済学賞 天才たちから専門家たちへ
ノーベル経済学賞 天才たちから専門家たちへ
著・編:根井 雅弘,著:荒川 章義,著:寺尾 建,著:中村 隆之,著:廣瀬 弘毅
講談社選書メチエ
二十世紀後半の混沌たる現実は、自然科学と平和が対象のはずの賞を「拡張」させた。大恐慌、世界大戦、東西対立、欧州統一、共通通貨……。多くの知性が熱い議論を交わし、相対立する政策が提起される。受賞を後悔したミュルダール、デモ隊に乱入されたフリードマン、投機に足をすくわれたマートンとショールズ……彼らは何を語り、何を見ようとしなかったのか。半世紀近くにわたる歴史を一気にたどり、将来を展望する。 ノーベルの遺言にはなかった経済学賞は、1969年に新設され、50年の歴史があります(他の賞は1901年創設)。英語では、The Sveriges Riksbank Prize in Economic Sciences in Memory of Alfred Nobel、つまり「アルフレッド・ノーベル記念スウェーデン国立銀行経済学賞」が正式名称となります。他の賞に倣って、スウェーデンの王立科学アカデミーが受賞者の選考に当たっているので、「ノーベル経済学賞」に見えるが、ノーベル財団は、経済学賞の選考プロセスの中で、Not a Nobel Prizeという項目を立てて注意を喚起しているのです。また、ノーベル経済学賞が、左翼系の経済学者たちを排除しているという意味で「偏向」しているという批判もあります。 とはいえ、経済学賞の創設からほぼ半世紀、経済学は科学としても発展してきました。例えば、「期待」をどう経済モデルに組み込むべきか?、「合理的経済人」モデルから「限定合理性」へ、ゲーム理論による数学的分析の精緻化などです。90年代から現在にいたるまで、ノーベル経済学賞はその範囲を広げ、心理学、社会学など周辺領域の優れた研究にも与えられるようになり、総合的人間科学が対象となってきました。 本書では、半世紀に亘るノーベル経済学賞の歴史を振り返ることで、現代経済学のエッセンスをわかりやすく紹介します。
電子あり
アメリカ 異形の制度空間
アメリカ 異形の制度空間
著:西谷 修
講談社選書メチエ
アメリカとは単なる地名でもなければ国名でもない。キリスト教旧世界が新たな大地に作り出した制度空間の名である。1492年、コロンブスにその一端が「発見」された新天地。西洋から見て「無主の地」は「法的所有」の対象となった。征服と植民により獲得され拡大する新世界。そこに教会・旧制度から逃れるように<自由>と<個人の自立>の観念が生い茂る。今や世界の隅々に浸透しているその根強い規範性の由来を探る。
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英語の帝国 ある島国の言語の1500年史
英語の帝国 ある島国の言語の1500年史
著:平田 雅博
講談社選書メチエ
英語はいつから、これほど世界を覆う言語になったのか。イングランドに出現した言語が、ウェールズ、スコットランド、アイルランドに広がり、ついで、インドやアフリカ、オーストラリア、アメリカをも含む植民地へと達し、さらにグローバルな地域へと拡大した「英語の帝国」。これらの地域は、どのように「英語」と出会い、反発し、受け入れたのだろうか。そして、日本の英語教育の始まりと、森有礼の「日本語廃止論」の真相とは。 日本語もまだ覚束ない幼児を英語塾に通わせる親。「グローバル社会」に対応するためと称し、早期英語教育を煽る文科省。こうした「英語熱」はどのような歴史を経てもたらされたのか。英語はいつからこのように世界を覆う言語になったのか。 本書でいう「英語の帝国」とは、5世紀頃にイングランドに出現した言語が、ブリテン諸島すなわちウェールズ、スコットランド、アイルランドに広がり、ついで近代には、インドやアフリカ、オーストラリア、アメリカをも含む「ブリテン帝国」へと達し、さらにはそれ以外の文字どおりグローバルな地域に拡大した英語圏を指す。これらの広大な地域は、どのように「英語」と出会い、反発し、受け入れてきたのだろうか。 立身のために子どもへの英語教育を熱望したウェールズの親たち、アイルランド人のナショナリズムと英語への抵抗、アフリカでのキリスト教と一体化した「英語帝国主義」など、各地、各時代の英語をめぐる様相を明らかにしていく。そして、日本における英語教育の始まりと、森有礼の「日本語廃止論」の真相とは。 現代日本における一見、滑稽でさえある「英語熱」に浮かされた光景は、長い「英語の帝国」の歴史のあちこちに見られた。「英語の帝国」の構築を推進し、そこから利益を得た人びとは、ふつうの親たちを巧妙にこれになびかせるシステムを作っていたのである。こうした過去を見据え、「自己植民地化」を免れて未来を展望するために必読の書。
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新・中華街 世界各地で〈華人社会〉は変貌する
新・中華街 世界各地で〈華人社会〉は変貌する
著:山下 清海
講談社選書メチエ
「改革開放」以降に海外に渡った「新華僑」によって形成されたチャイナタウンすなわち「新・中華街」が、世界中に増えている。アメリカ、カナダはもちろん、ロンドン、パリ、さらにイタリアや東欧でも、「食文化」を武器として現地社会に溶けこみ、強いコミュニティををつくりあげているさまを、異色の地理学者が現地レポート。さらに、新華僑を送り出している中国の町=僑郷も訪ね歩く。華人社会の海外での「「強さ」の秘密とは? 近年、池袋駅北口に出現した「池袋チャイナタウン」は、中国料理店や食材店だけでなく、危険ドラッグの販売店などもあることから、物議をかもしている。しかし、こうした「新しいタイプのチャイナタウン」は、東京だけでなく、世界中に増えているのだ。1978年に始まる中国の「改革開放路線」以降、新たに海外に出ていった中国人、すなわち「新華僑」によって形成されてきたチャイナタウンを、本書では「新・中華街」と呼び、その実態を世界中に訪ね歩く。 チャイナタウンは、単なる「中国料理と中国食材の街」ではない。そこは、さまざまな事情と思いを抱えて海外に飛び出した華人たちが、新たな挑戦をする舞台であり、足掛かりである。アメリカ、カナダはもちろん、ロンドン、パリ、さらにイタリアや東欧諸国でも、「食文化」を有力な武器として現地社会に溶けこみ、地縁・血縁を絆とした強いコミュニティををつくりあげる華人社会がある。 本書はさらに、そうした新華僑を大量に送り出している中国の町=僑郷のいくつかをフィールドワークし、同郷・同族のパイプと、帰郷した「元・華僑」たちの暮らしも描き出す。 なぜ、日本人街や韓国人街、イタリア人街は世界中に広がらないのか? 華人社会の海外における「強さ」の秘密とは? 異色の地理学者によるフィールドワークの成果。
電子あり
大東亜共栄圏 帝国日本の南方体験
大東亜共栄圏 帝国日本の南方体験
著:河西 晃祐
講談社選書メチエ
1940年8月1日、「大東亜共栄圏」という言葉が外務大臣・松岡洋右によって初めて公表された。新秩序構想を支えるスローガン「八紘一宇」はどのような思想的・歴史的背景から出てきたのか。やがて東南アジアを軍事占領し、対米開戦に至る日本の針路はこの構想で想定されていたのか。200万以上の日本人に「南方」での生活を強い、東南アジアの人々に日本と日本人を目撃させた「外交政策」を検証する。 「大東亜共栄圏」という言葉が当時の外務大臣・松岡洋右によって初めて公表されたのは1940年8月1日であった。その用語は当時のどのような国際情勢をふまえ、いかなる意図を持って掲げられたのか。 やがて東南アジアを軍事占領し、対米開戦へと突き進むことになる日本の方向は、この構想が想定する道だったのか。また、この構想を支えるようになる「八紘一宇」というスローガンは、そもそもどんな思想的出自をもつのか。 対米外交の行き詰まりと東南アジア情勢への介入が拡がるなか、これらの言葉は日本人の目を「南方」異文化へと開き、「共栄圏」への志向を強めていく。 結果的には3年半余りしか続かなかった「大東亜共栄圏期」。その間200万人を超える日本人に東南アジアでの生活を強い、数千万人の東南アジアの人々に「日本文化」を目撃させた特異な時代は、どんな状況に生まれてきたのか、何か明確な理念を持っていたのか。 本書は1940年代前半の日本全体を覆った歴史的運動を多角的に検証する。
電子あり
丸山眞男の敗北
丸山眞男の敗北
著:伊東 祐吏
講談社選書メチエ
丸山眞男(1914-96年)は、戦後日本を代表する知識人である。その政治的著作は敗戦直後から多大な影響力をもち、丸山は「戦後民主主義」の象徴となった。本書は、その全主要著作を通覧し、解説する絶好の概説書である。しかし、丸山を生涯にわたって貫く原理である「丸山眞男の哲学」を発見し、それを前提に著作を読んでいく中で、本書は驚愕の結論に到達する。──丸山眞男は、1960年にはすでに「敗北」していた。 丸山眞男(1914-96年)は、戦後日本を代表する政治学者として名を轟かせ、今も多くの人に読み継がれている。日本が敗戦を迎えた直後に発表した論文「超国家主義の論理と心理」で天皇制の精神構造を批判して華々しく論壇に登場した丸山は、「戦後民主主義」を象徴する存在となった。 本書は、没後20年を迎えた不世出の学者の全容を、これまでになかった視角から解き明かそうとする野心作である。 本書のキーワードとなるのは「丸山眞男の哲学」である。政治学の著作で知られる丸山だが、その本領は日本思想史にあった。一見、直接の関係を見出しにくい両者を一貫して支える丸山の原理を、著者は「哲学」という言葉で表現し、追求していく。 その原理を踏まえながら、丸山の代表的な著作を通覧していく本書は、最良の入門書・概説書としても読むことができるが、そうして愚直に作品を「読む」ことで明らかになる結論は、まさに驚愕をもたらすものである。──政治学者としての丸山眞男は、1960年にはすでに「敗北」していた。 戦死者の亡霊がそこかしこに漂っているのを意識しながら戦後を開始した丸山は、やがて日本が目覚ましい復興と成長を遂げ、さまざまな意味で余裕を獲得した結果、人々の関心が経済や私生活に移っていくにつれて、闘志や焦燥感を失っていった。その結果、政治的な言論活動に対する意欲を失い、40代半ばにして半ば隠遁するように日本思想史研究に沈潜していく。しかし、それはひとり丸山の「敗北」であるだけでなく、ほかでもない「戦後民主主義」の「敗北」である、それが著者の結論となる。  戦後70年を迎えた日本は、憲法改正が現実味を帯びた話題になっているように、「戦後」や「戦後民主主義」を振り返らざるをえない状況に置かれている。丸山の歩みと「敗北」を知ることは、まさしく「戦後日本」の起源と歴史を知ることである。それは、いまだ現在進行形の「戦後」を生きていく上で不可欠な思索のきっかけになることだろう。
電子あり
夢の現象学・入門
夢の現象学・入門
著:渡辺 恒夫
講談社選書メチエ
夢は未来予示あるいは想い人からのメッセージなのか。充たされない願望の幻覚的充足なのか。さらに脳科学や進化心理学的研究による「解明」もある。しかし、それらは私たち自身の夢実感からはかけ離れている。本書では、著者自身の夢日記や学生からの夢報告を材料として、夢という「世界」がどのような原理によって構成されそれをどのように体験しているのかを、現象学の方法によって、実際に解読していく。 なぜ夢の中では架空の他者になれるのか、あるいは実在の他者になれるのか。なぜ夢の中では未来も過去もないのか。夢という体験世界の構造原理はどのようなものなのか。 夢は古代以来、未来予示あるいは想い人からのメッセージとされ、近代ではフロイトによって充たされない願望の幻覚的充足と解釈されたりした。また、脳科学や進化心理学によって夢研究は大きく進展しているように見える。しかし、そのような「解明」は私たち自身の夢実感に納得のいく説明を与えるものだろうか。 本書では、著者自身の夢日記や学生からの夢報告を材料として、夢という「世界」がどのような原理によって構成されそれをどのように体験しているのかを、現象学の方法によって、実際に解読していく。 現象学的方法は、現実が「世界」なら夢も「世界」であるという、これまで気づかれなかった認識を鮮やかに与えてくれるものである。
電子あり
九鬼周造 理知と情熱のはざまに立つ〈ことば〉の哲学
九鬼周造 理知と情熱のはざまに立つ〈ことば〉の哲学
著:藤田 正勝
講談社選書メチエ
独自の思索を展開した哲学者・九鬼周造(1888-1941年)。その波乱に満ちた生涯をたどりながら、「〈ことば〉の哲学」をキーワードにして、全主要著作を読み解く。『「いき」の構造』(1930年)、『偶然性の問題』(1935年)、『文芸論』(1941年)といった多彩な著作を貫くものとは? 日本哲学研究の第一人者である著者が、若き日から耽溺してきた不世出の哲学者に抱く深い想いを今ついに解き放つ。 『「いき」の構造』(1930年)で知られる哲学者・九鬼周造(1888-1941年)は、東京帝国大学を卒業したあと、ヨーロッパに留学した。ドイツではリッケルト、フッサール、ハイデガーに学び、フランスではベルクソンと知り合って対話を交わすなど、本場で哲学の訓練を受けたことが知られる。帰国後は没年まで京都大学哲学科で教授を務めてフランス哲学や現象学などを教える一方、留学中に強く認識した日本の美と文化を追求して、『「いき」の構造』を執筆するに至った。続いて発表された『偶然性の問題』(1935年)、『人間と実存』(1939年)、『文芸論』(1941年)といった著作を手に取ればすぐ分かるように、九鬼が関心をもった対象は、「偶然性」、「時間」、「美」、「押韻」など、きわめて多岐に及んでいる。 多様な姿を見せる九鬼の哲学には、しかし一貫した問題意識がある。──本書は、そのような視点から、九鬼周造という神秘と魅力に満ちた人の生涯をたどり、すべての主要著作をていねいに読み解いていく。 哲学書はもちろん、『ウパニシャッド』などの古代インド文献、『ミリンダ王の問い』や『浄土論』などの仏教文献、さらにはボードレールやヴァレリーの詩、富士谷御杖の歌論書にまで及ぶ膨大な文献から、明確な輪郭をもつ理論を彫琢していく力。さまざまな現象から聴き取ったものを論理的に把握し、緻密に構造化する力。九鬼周造という哲学者だけがもつその力のありかに、近代日本哲学研究の第一人者である著者が迫る。  「〈ことば〉の哲学」というキーワードを手がかりにして、九鬼の生涯と全思索を魅力ある筆致で描ききった本書は、最良の入門書であるだけでなく、他では体験できない知的冒険をもたらしてくれるだろう。
電子あり
「怪異」の政治社会学 室町人の思考をさぐる
「怪異」の政治社会学 室町人の思考をさぐる
著:高谷 知佳
講談社選書メチエ
怪異とは、それぞれの時代の特徴を、もっとも生々しく切り取る切り口のひとつなのである。それぞれの時代の社会が直面し、そして説明しきれず、恐れねばならなかった問題は、いったいなんであったのか。その問題と関連づけながら、政権中枢に向かって……どのような思考や実践がおこなわれたのか。……怪異を切り口にすることで、政治・経済・文化にまたがる人びとの思考を、われわれは動態的にみてゆくことができるのである。  明治維新とともに、近代化と啓蒙の波が押し寄せ、医療や教育を中心に、「非合理的」な迷信の否定や克服が徹底的におこなわれるなかで、西欧列強に追いつき追い越すことをめざす人びとの目には、近代以前の社会の人びとが、「神仏や怨霊が、さらなる凶事の前触れとして怪異を引き起こす」と考え、それに対処してきた姿は、まさに非合理的なやりかたの典型として映った。(中略)  もちろん、このような明治時代の近代主義的な視点がさまざまな問題をはらんでいることは、今日にいたるまでに、あらゆる学問において指摘され、克服されている。しかし、こと怪異にたいする見かたにかぎれば、具体的な一つひとつの怪異はたしかに技術の進歩によって解明されてきたこと、また解明された怪異は趣味や娯楽のなかに溶けこんでいることから、現代のわれわれも、じつは明治時代の人びとと大差ない見かたをしているのではなかろうか。  つまり、非合理的なものを「ひとかけらでも」信じるような人びとは、そのなかから取捨選択をおこなう合理性さえもちあわせず、「すべて」丸呑みしていたのだろうと思いこんでしまい、古代から近世にいたるまでの社会を、ひとしなみに「宗教や怪異を信じる=非合理的」とみなして、近現代と対比しているのではないか。  しかし、怪異は、激動する政権中枢と、密接にかかわってきたものである。それなのに、古代から近世にいたるまでの社会が、一貫して、怪異を、まったく同じように丸呑みしてきたとみなしてよいだろうか。前近代の社会は、そんなにも静態的なものではあるまい。  むしろ、怪異とは、それぞれの時代の特徴を、もっとも生々しく切り取る切り口のひとつなのである。それぞれの時代の社会が直面し、そして説明しきれず、恐れねばならなかった問題は、いったいなんであったのか。その問題と関連づけながら、政権中枢に向かって、怪異を「しかける」にせよ、それにたいしてシビアに「受容すべきかどうか検証する」そして「対処する」にせよ、どのような思考や実践がおこなわれたのか。……政権、寺社、社会、三者のあいだでの動きや影響力は、そうした思考や実践のなかで、さまざまに変化するのである。  怪異を切り口にすることで、政治・経済・文化にまたがる人びとの思考を、われわれは動態的にみてゆくことができるのである。(「はじめに」より)
電子あり
「こつ」と「スランプ」の研究 身体知の認知科学
「こつ」と「スランプ」の研究 身体知の認知科学
著:諏訪 正樹
講談社選書メチエ
スポーツ、運転、仕事、家事、話し方……身体を使うすべてのモノゴトに「こつ」は存在し、「スランプ」は学びの必然である。スランプを乗り越え、こつを体得するとはどういうことか。「からだ」と「ことば」はいかに相関しあうのか。身体に根ざした知=身体知の学びに挑む、認知科学の最先端! 自転車や車の運転から水泳、ゴルフ、仕事のやり方まで、「身体がおぼえる」、「こつをつかむ」、あるいは「スランプに陥る」のは、誰もが経験したことではないでしょうか。 本書は、そうした「身体に根ざした知」=「身体知」と、「身体知を学ぶ」とは一体どういうことなのかを、イチロー選手なども例にとりつつ、認知科学という立場から解明し、更に「身体知の研究はどうあるべきか」について明快に論じます。 こつをつかむにも、スランプを脱するにも、「ことば」が重要であるらしいことがわかってきました。 〈からだメタ認知〉という概念をキーワードに、身体とことばの共創をめぐる最先端の研究を、わかりやすく紹介します。
電子あり
熊楠の星の時間
熊楠の星の時間
著:中沢 新一
講談社選書メチエ
著者中沢新一氏は『森のバロック』『南方熊楠コレクション』(全五巻)をはじめ一連の熊楠研究に対して、2016年の第26回南方熊楠賞を受賞。21世紀に入ってからも、ますます著者は熊楠の重要性を認め、彼の思想を発掘・発展させています。真のエコロジーを問う「アクティビスト南方熊楠」「海辺の森のバロック」、全体知を探究する「熊楠の華厳」、熊楠の心の構造を解明する「南方熊楠のシントム」などを収録する新熊楠論。 著者中沢新一氏は、長年にわたり南方熊楠についての考察を深め、多くの論考を発表してきました。1990年代に刊行された『森のバロック』(読売文学賞)、『南方熊楠コレクション』(全五巻)などが、その代表作です。また、「宗教学・人類学・民俗学を綜合して「対称性人類学」で新たな思想を展開しています。また独自のフィールドワークによる「アースダイバー」(『アースダイバー』、『大阪アースダイバー』、『週刊現代』連載中の「アースダイバー 神社編」)新しい知見と感性を切り開く可能性をもっています」(南方熊楠顕彰会の受賞理由を短縮しまとめた)。 2016年の第26回南方熊楠賞が授与されます。 21世紀に入ってから、著者はますます熊楠の重要性を認め、彼の思想の可能性を掘り起こし、発展させるために、2014年には「南方熊楠の新次元」と題する4回の講演・対談を主催しました(明治大学野生の科学研究所)。 本書は、その時の講演「アクティビスト熊楠」「明恵と熊楠」(改題「熊楠の華厳」)に加えて、熊楠の心の構造を探った「熊楠のシントム」、海のエコロジーを探究する「海辺の森のバロック」、本書の全体像を提示する「熊楠の星の時間」を収録した、新熊楠論です。 思想家・中沢新一が提示する、熊楠哲学の放つ強力な火花に驚愕し、目を開かれることになるでしょう。未来を切り開く一冊です。
電子あり
もうひとつの「帝銀事件」 二十回目の再審請求「鑑定書」
もうひとつの「帝銀事件」 二十回目の再審請求「鑑定書」
著:浜田 寿美男
講談社選書メチエ
本書では帝銀事件の「犯人」とされる平沢貞通が、無実なのに虚偽自白に落ちたという無実仮説、また目撃者たちも平沢を見て、「犯人と似ている」とか、「犯人だと断定する」という目撃過誤を犯したという無実仮説を提起する。もし自白と目撃について、この仮説が心理学的に成り立つとすれば、そのこと自体が検察側の有罪仮説への「合理的疑い」となるはずである。本書では、こうした戦略で目撃と自白の供述鑑定を進める。 本書は2015年11月24日、帝銀事件の20回目となる再審請求にあたって提出された鑑定書「帝銀事件における目撃供述および自白供述の心理学的分析」の「鑑定本文」を再編集し、書籍化したものです。 ……もし平沢が無実ならば、先に見てきたように、帝銀事件とはまったく別のところで、無実の平沢が犯人とまちがわれ、捕らわれ、自白させられ、起訴された後、無実が認められないままに死刑が確定して、長い獄中生活の果てに獄死したという冤罪事件が起こっていたことになる。ここに、平沢が無実でありながら虚偽自白に落ちたという無実仮説が提起されるし、目撃についても、「帝銀事件」の目撃者たちがその無実の平沢を見て、「犯人と似ている」とか、「犯人だと断定する」という目撃過誤を犯したという無実仮説が提起される。  もし自白と目撃について、この無実仮説が心理学的に成り立つとすれば、そのこと自体が検察側の有罪仮説への「合理的疑い」となるはずである。本書では、こうした戦略で目撃と自白の供述鑑定を進めることになる。つまり、通常の裁判での片面的検証にたいして、有罪仮説-無実仮説を立てて、そのどちらの仮説がよりよく目撃・自白の全データを説明するかという鑑定で、いわば両面的検証をおこなう。  ここで、もし有罪仮説の説明力のほうが高いということになれば、目撃者の供述過程は「当初、正確に特定できなかったけれども、やがて平沢を真犯人として正しく射当てていった過程」だということになるし、平沢の自白過程は「真犯人が取り調べのはじめは嘘で否認していたけれども、やがて真の自白に落ちて犯行を語り、裁判ではまた嘘の否認に転じた過程」だということになる。そうなれば、本件の確定判決の正しさが再確認される。  しかし逆に、もし無実仮説の説明力のほうが高いということになれば、目撃者の供述過程は、「事情聴取がくりかえされていくなかで無実の平沢を真犯人とまちがえていった誤謬の過程」であり、自白過程は「無実の平沢が疑われ取り調べられて、最初は真の否認をしていたのに、やがて嘘の自白に落ちて、犯行の筋書きを語り、裁判では思いなおしてふたたび真の否認に転じた過程」だったことになる。もしそのことが証明されれば、じつは、その自白過程や目撃供述過程そのものが「無実証拠」として浮かびあがることになる。(本文より)
電子あり
来たるべき内部観測 一人称の時間から生命の歴史へ
来たるべき内部観測 一人称の時間から生命の歴史へ
著:松野 孝一郎
講談社選書メチエ
「過去、現在、未来」から成り、前後関係を定めることができるような「時間」を、私たちも、そして科学者も疑っていない。しかし、私たちがすべてを経験するのは常に持続する「今」なのだとすれば、二つの時間をともに捉えなければならない。「内部観測」の発見者である著者が、自身の理論をバージョンアップするべく試みる大胆な挑戦。さまざまな科学の最前線を横断しながら展望される、前人未到の領域を目撃せよ! 「時間」とは何か?──そう問われたとき、人は「過去、現在、未来」から成る流れのようなものを想像するだろう。その時間の中では「過去」、「現在」、「未来」が明確に区別され、それらの前後関係を定めることができると考えられている。そのような時間は、経験科学も自明の前提としてきたものである。しかし、その一方で、私たちは常に「今」に生きていて、「今」から離れることはできない。つまり、私たちがあらゆる経験をする現場は「今」以外ではなく、そこには「過去」も「未来」もない。 だとすれば、ここにある「現在」と「今」は同じものなのか。本書は、この問いを出発点にして、前後関係としての時間に依拠する経験科学が、経験の現場である「今」を捉える方法を探っていく。 そのためのカギになるのが、著者が発見し、世界的に影響力を及ぼし続けている「内部観測」という方法にほかならない。内部観測とは、個物が他の個物と関係をもつとき、相手から受ける影響を相互に同定しながら相手を観測する、という私たちが経験の現場で日々行っている事実を指す。すでに『内部観測とは何か』(2000年)でその概要を示したこの方法をバージョンアップするべく、著者は私たちがもっている「言語」に注目する。 通常、言語は「過去」、「現在」、「未来」を区別する「時制」をそなえている。しかし、時制は三人称で捉えられるものであり、それは一人称でしかありえない経験を捉えることはできない。ところが、物理学をはじめとする経験科学は、三人称での記述を行うものとして、確立・発展してきた。そこで扱われる対象は、すでに完了形になった「過去」のものでしかないが、経験というのはいつでも進行中であり、完了とは無縁の一人称のものである。では、経験科学は一人称を捉えることはできないのか? 量子論、熱力学、インフォメーション現象から「生命の起源」に至るまで、さまざまな科学の最前線を横断しながら、著書は前人未到の領域を目指して大胆な可能性に挑戦していく。
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江戸諸國四十七景 名所絵を旅する
江戸諸國四十七景 名所絵を旅する
著:鈴木 健一
講談社選書メチエ
 江戸時代には交通網も発達し、旅や諸国の風景・事物への関心が高まって、名所図会類が多く刊行された。風景画の浮世絵、読み物や事典類の挿絵などとしても繰り返し描かれ、各地の名所名物についての知識も一般に普及した。本書では、江戸時代の文学をはじめとして、その時代に出版されたさまざまな味わい深い絵画の中に描かれる名所名物を見て、日本全国、北海道から沖縄まで一県につき一ヵ所、全部で四十七の名所を巡る。 江戸時代には交通網も発達し、多くの人々が旅を楽しんだ。前代までとは比べものにならないほど、旅そのものや諸国の風景・事物への関心は高まっていた。そして、実際の旅が体験されるだけではなく、紀行文や名所図会類によっても楽しまれていたのである。名所図会類の挿絵の精密さはすばらしく、味わい深い。また、風景画の浮世絵、読み物や事典類の挿絵などとしても、それらは繰り返し描かれ、各地の名所名物についての知識も一般に普及した。  本書では、江戸時代の文学をはじめとして、その時代に出版されたさまざま絵画の中に描かれる名所名物を見て日本全国を巡る。北海道から沖縄まで一県につき一ヵ所、つまり全部で四十七の名所を巡ることになる。
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金太郎の母を探ねて 母子をめぐる日本のカタリ
金太郎の母を探ねて 母子をめぐる日本のカタリ
著:西川 照子
講談社選書メチエ
日本人なら誰でも知っている「金太郎」の母は誰だったのか? 奥山に住み、人を食らう恐しい鬼女「山姥」こそ金太郎の母だったことを出発点に、彼女の行方を求めて、古代から中世を旅していく。首を斬られ、肉体は朽ちているのに、わが乳飲み子のために乳房だけ残して乳を出す母の姿を御伽草子が描いているように、決して切っても切れない母と子の関係を探った果てに、「金太郎は日本人の祖である」という驚愕の事実と出会う。 まさかりをかついで熊にまたがり、「金」の字が染め抜かれた真っ赤な腹掛けをしている子供。──日本人なら誰でも知っている「金太郎」です。 では、その金太郎のお母さんは誰だったか? そう問われて答えられる人は決して多くないでしょう。しかも、その母は妖怪だった、と言われたら驚かずにはいられないのではないでしょうか。本書は、金太郎の母が、奥山に住み、人を食らう恐しい鬼女「山姥」であるという事実から出発し、母の行方を追って古代から中世を旅していく書です。 金太郎は長じてから京で源頼光とともに「酒呑童子」を退治します。田舎の力自慢の子供が逞しい大人に成長し、都を苦しめていた山の怪物を討つ、というストーリーは英雄にふさわしいものでしょう。その母が山姥なのだとしたら、子供である金太郎もまた妖怪ということになってしまう。もちろん、これは都合の悪い事実です。だからこそ、母と子を引き裂き、母を見えないようにしてきた歴史が私たちの視界から隠されてきました。歴史の闇から金太郎の母を救い出さなければなりません。 中世から古代へ、そして再び中世へとめぐっていく本書の旅は、至る所で「母子神信仰」というキーワードと出会うことになるでしょう。御伽草子に見られる物語「熊野の本地」には、首を斬られ、肉体は朽ちているのに、わが乳飲み子のために乳房だけ残して乳を出す母、という異形が描かれています。「母は子のためなら鬼にも蛇にもなる」と著者が言うとおり、ここには決して切り離せない母子の関係があります。そして、「母子神信仰」を手がかりに旅を続けていった果てでは、「金太郎は日本人の祖である」という驚愕の事実と出会うことになるでしょう。 さあ、金太郎の母を求める旅に出かけましょう!
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都市の起源 古代の先進地域=西アジアを掘る
都市の起源 古代の先進地域=西アジアを掘る
著:小泉 龍人
講談社選書メチエ
「都市の起源」を探究することは、文明の起源を知ることである。従来、「世界最古の都市」とされてきたエリコ遺跡は、近年、その「都市説」が見直されている。本書では、イラクのウルク遺跡と、シリアのハブーバ・カビーラ南遺跡を「世界最古」の有力候補とし、さらに、メソポタミア各地の遺跡を検討。人の移動、すなわち「よそ者」の流入を契機に快適な生活空間への工夫がなされ、同時に人々の「格差」が生まれるまでを解明する。 世界の考古学者にとって、「都市の起源」は、「人類の起源」「農業の起源」と並ぶ「三大テーマ」のひとつである。大規模な集落に人々が集住し、快適な暮らしを求めて試行錯誤し、そこで新たな経済活動と政治権力が生まれる。「都市の起源」を探究することは、文明の起源を知ることなのである。  従来、「世界最古の都市」とされてきたパレスティナのエリコ(イェリコ)は、近年、その「都市説」が見直されている。では、「世界最古」はいったいどこなのか? おもに西アジアで都市形成期の遺跡発掘に携わってきた著者は、イラクのウルク遺跡と、シリアのハブーバ・カビーラ南遺跡を「最有力候補」として挙げる。本書は、この二つの遺跡を中心に、メソポタミアのアブ・サラビーフ、ウル、バビロン、エリドゥなどのほか、インダスのモヘンジョダロ遺跡なども検討し、「都市はどのように誕生したのか」「なぜ、西アジアに最初の都市が生まれたのか」を探っていく。  著者によれば、人の移動、すなわち「よそ者」の流入が契機となって、集落内の富の偏在、すなわち格差が生まれ、また同時に快適な生活空間への工夫が促されて「都市」が発達してきたという。
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怪物的思考 近代思想の転覆者ディドロ
怪物的思考 近代思想の転覆者ディドロ
著:田口 卓臣
講談社選書メチエ
「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」──そう記したアドルノが第二次大戦後に糾弾した「啓蒙」は、今や破綻している。実証主義と合理主義に基づく人間の理性は、自然を支配し、技術を統制できる。そう教えてきた「啓蒙」に抗して、啓蒙思想を代表するドニ・ディドロ(1713-84年)は「基準/逸脱」や「正常/異常」といった区別を無効にする「怪物的思考」を実践した。常識を覆すスリリングな思想史! 「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」──この著名な一文を記したのは、テオドール・アドルノ(1903-69年)である。そのアドルノが第二次大戦直後にマックス・ホルクハイマー(1895-1973年)との共著で刊行した書物の表題が『啓蒙の弁証法』(1947年)だったことは、よく知られている。 この書物の表題に「啓蒙」の語が含まれていることがもつ意味は、今日ますます重くのしかかってきている。実証主義に基づいて自然を理解し、合理的思考に基づく技術で自然を支配できると考え、人間の理性を絶対視する思考。それこそが「啓蒙」と呼ばれてきたものだが、まさにその「啓蒙」の結果、人間は大量殺戮を可能にする兵器を生み、みずから統制できない危険をもたらす技術を生んできた。 アドルノとホルクハイマーが糾弾したこの事実は、しかし、まさに「啓蒙」思想の全盛期である18世紀フランスを代表する人物によって、はっきりと、そして過激に示されていた。その人物こそ、『百科全書』を編集したことで知られる啓蒙思想を代表する巨人ドニ・ディドロ(1713-84年)にほかならない。本書は、その事実を明らかにし、西欧の近代思想に対して抱かれているイメージを根底から覆すことを企図した、きわめて野心的な1冊である。 この課題のために、著者はディドロの代表作『自然の解明に関する断想』(1753年)を精緻に読解する。具体的な文章の向こう側に先達の、あるいは同時代の思想との関係を読み解く。あるいは、具体的な表現に込められた意図をディドロ自身の他の作品を参照しながら解明する。「法則/例外」、「基準/逸脱」、「正常/異常」といった区別を無効にする「怪物的思考」のスリリングさを体感させてくれる本書は、私たちの思考がとらわれている常識を心地よく転覆することだろう。 その読解の果てに広がっているのは、実証主義や合理主義がもたらす危険や弊害から目をそらせなくなっている現在、真に必要な「新しい思考」にほかならない。
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