講談社学術文庫作品一覧

アラブの歴史(下)
講談社学術文庫
名著、復刊。
第2次世界大戦後、近代西欧文明の世界支配に対して、アラブ世界が石油産業の発展を支柱とした政治闘争と社会改革を達成した事実は、彼らの歴史の新たな展開を物語る。進歩と混乱の20世紀が過ぎ、新時代を迎えた現在、不死鳥のように蘇る独自の政治・社会・文化的潜在力は、たんにアラブにとどまらず人類にとっての可能性でもある。精微なアラブ通史である本書は、新たな社会システムを考えるうえで貴重な示唆に富む1冊である。

近世日本国民史 徳川幕府統制篇
講談社学術文庫
元和二年四月家康逝きて、慶安四年四月家光没するまでの三十七年、すなわち秀忠・家光の二代間に、徳川幕府はあらゆる方面において、中央集権の設備結構を成就。対皇室、対公家、対大名、対外国、対庶民、いずれも幕府中心主義、幕府安全第一主義、幕府至上主義から演繹せらざるものではなく、かつそれらはあたかも潮の押し寄するがごとく、歩一歩ずつ、すべての権力を江戸なる幕府の将軍に集注し来らしめたのだった。
元和二年(1616)四月家康逝きて、慶安四年(1651)四月家光没するまでの三十七年、すなわち秀忠・家光の二代間に、徳川幕府はあらゆる方面において、中央集権の設備結構を成就。対皇室、対公家、対大名、対外国、対庶民、いずれも幕府中心主義、幕府安全第一主義、幕府至上主義から演繹せらざるものではなく、かつそれらはあたかも潮の押し寄するがごとく、歩一歩ずつ、すべての権力を江戸なる幕府の将軍に集注し来らしめたのだった。

古今和歌集(四)
講談社学術文庫
古今集は勅撰二十一代集の嚆矢であり、それ以後の勅撰集・私撰集の規範となった。平安時代の最も優れた歌一千余首を精選分類したもので、歌を通して平安貴族の情趣的生活を窺い知ることができる。

アラブの歴史(上)
講談社学術文庫
名著、復刊。
アラブ人自身によるアラブの歴史記述は、伝統的方法論による同時代人のものを除いては存在せず、近世においてはまったく断絶していた。そんなアラブ史の科学的探究は、19世紀中葉以降に西欧の学会で始められるが、それらの研究は社会・文化的に限界があった。本書は、広範なアラブの古典知識を基礎に、アラブ世界全域を視野に入れ、政治・社会・文化の全領域をバランスよくカバーした、アラブ人による空前の綜合的アラブ史である。

近世日本国民史 徳川幕府鎖国篇
講談社学術文庫
島原の乱の原因はヤソ教徒の反乱か、苛斂誅求の結果か―。関ヶ原の役から三十年余の間に徳川幕府の一切の仕組は整頓せられ、爾来二百有余年の泰平は維持せられた。本篇はその間における歴史過程、特に、従来の歴史家に閑却せられてきた宗教的弾圧と鎖国政策との至緊至切の関係を説きつつ、何故に幕府当局者は鎖国令を徹底励行せしめるに至ったか、かかる形勢を馴致せしめたる徳川幕府の自存主義の是非を後世史家の問う雄篇である。

古今和歌集(三)
講談社学術文庫
古今集は勅撰二十一代集の嚆矢であり、それ以後の勅撰集・私撰集の規範となった。平安時代の最も優れた歌一千余首を精選分類したもので、歌を通して平安貴族の情趣的生活を窺い知ることができる。

古今和歌集(二)
講談社学術文庫
古今集は勅撰二十一代集の嚆矢であり、それ以後の勅撰集・私撰集の規範となった。平安時代の最も優れた歌一千余首を精選分類したもので、歌を通して平安貴族の情趣的生活を窺い知ることができる。

近世日本国民史 徳川吉宗
講談社学術文庫
「我は天下の政務を摂する心なれば、深宮に手を拱せず」と、紀州徳川吉宗八代将軍を襲職するや果断勇決、白石・詮房の徒を退け、幕政の京都化を阻止、万機を親裁し、頽廃糜爛せる人心を一新。大岡忠相を擢用し秩序を正し風俗を矯正、文教の普及を図るのみならず蘭学を奨励、もって広く知識を世界に求むるの端を啓く。後世の史家をして鎖国日本の後頸家光に比し、開国日本の先駆、徳川幕府中興の祖といわしむる善政を布く。
「我は天下の政務を摂する心なれば、深宮に手を拱せず」と、紀州徳川吉宗藩鎮より入りて八代将軍を襲職するや果断勇決、白石・詮房の徒を退け、幕政の京都化を阻止、万機を親裁し、頽廃糜爛せる人心を一新。大岡忠相を擢用し秩序を正し風俗を矯正、文教の普及を図るのみならず蘭学を奨励、もって広く知識を世界に求むるの端を啓く。後世の史家をして鎖国日本の後頸家光に比し、開国日本の先駆、徳川幕府中興の祖といわしむる善政を布く。

養生訓
講談社学術文庫
養生の術は、先わが身をそこなふ物を去べし。身をそこなふ物は、内慾と外邪となり。内慾とは飲食の慾、好色の慾、唾の慾、言語をほしいまゝにするの慾と喜怒憂思悲恐驚の七情の慾を云。外邪とは天の四気なり。風寒暑湿を云(いう)。内慾をこらゑてすくなくし、外邪をおそれてふせぐ、是を以(もって)元気をそこなはず、病なくして天年を永くたもつべし。(『養生訓』巻第1・総論上「内なる慾望と外なる邪気」より)

孔子・老子・釈迦「三聖会談」
講談社学術文庫
孔子・老子・釈迦の三聖が一堂に会し、自らの哲学を語りあうという奇想天外な空想てい談。三聖の世界観や人間観、また根本思想や実際行動が、比較対照的に鮮やかに語られる。東洋思想のユニークな入門書。

おとぎ草子
講談社学術文庫

近世日本国民史 元禄時代政治篇
講談社学術文庫
五代将軍綱吉の時代は、幕府中心主義が実行せられ、天上天下・国外国内何者も幕府に刃向かう者はなく、将軍の命令に反抗する者はなかった。即ち、綱吉の初政は堀田政俊に輔佐せられたが、正俊横死事件は幕閣の仕組みに一大変化を来し、御側御用取次役の制は閣臣を牽制、佞臣柳澤吉保の登用は、綱吉をして享楽に耽溺せしめ、母桂昌院の迷信は佞僧隆光に利用され生類憐愍の悪政を招き、遂に悪貨製造、物価騰貴の原因を作るに至った。

自警録
講談社学術文庫
日本を代表する教育者であり国際人であった新渡戸稲造が、若い読者に人生の要諦を語りかける。人生の妙味はどこにあるか、広く世を渡る心がけは何か、全力主義は正しいのかなど、処世の指針を与える。

啓発録
講談社学術文庫
明治維新史を彩る橋本佐内が、若くして著した『啓発録』は、自己規範・自己鞭撻の書であり、彼の思想や行動の根幹を成す。書簡・意見書は、世界の中の日本を自覚した気宇壮大な思想表白の雄篇である。

近世日本国民史 元禄時代世相篇
講談社学術文庫
元禄時代は、徳川幕府盛運の絶頂期であり、精神的にも物理的にも泰平の気運が行きわたっていた。江戸は武士の都であり、大阪は町人の府であり、上方文化はこの大阪の富と京都の歴史の上に花開き、世にいう平等文学が流行し、浮世草子の西鶴、浄瑠璃戯曲の近松を生み、芭蕉は東依西托の後、安心立命の地を俳諧一途に定めた。時代の要求は絵画・音楽・舞曲その他百般の工芸美術の発展を促し、元禄百花爛漫の文化を現出したのだった。

平家物語(五)
講談社学術文庫
治承4年6月、清盛は、福原への遷都を断行、8月、伊豆に頼朝が挙兵したとの報が、早馬によって福原へ伝えられる。頼朝の挙兵は、超人的な天性不敵の怪僧文覚(もんがく)のすすめによるものとして、頼朝と文覚の出会いにいたる挿話が語られる。頼朝追討の平家の大軍が、富士川で戦わずして敗走し、以仁王に加担した南都が、清盛の命によって攻められ、東大寺・興福寺が焼失するなど、大事件が連続するなかで、治承四年が劇的に暮れていった。

徒然草(四)
講談社学術文庫
兼好は自在に、さまざまの話題にふれ、『徒然草』という独自の世界をくりひろげてきたが、この中で、みずからの行為をあまり語らなかった。しかし、彼は第238段で珍しく自賛のことどもを七つも並べ、第243段では、幼時の体験父とのやりとりを回想してさりげなく筆を置く。余韻の残る閉じ方である。本巻は、第183段から終章までをたどり、作者・作品についての解説、兼好の年譜、参考文献一覧を付す。(全4巻完結)

平家物語(四)
講談社学術文庫
久しく平家の配下にあった源頼政は、平家の権勢下、不遇の地位にある以仁(もちひと)王に、諸国に雌伏する源氏勢を挙げて平家を滅ぼし皇位に即くことをすすめ、ここに平家追討の令旨が発せられる。三井寺に入った以仁王と頼政勢は南都を頼って移動する途上、追撃する平家軍に攻められ宇治ではなばなしい「橋合戦」がくり広げられるが、衆寡敵せず、ついに討たれてこの企ては挫折する。しかし、この挙兵を契機として東国の源氏が決起することとなる。

徒然草(三)
講談社学術文庫
本巻は『徒然草』の第111段から第182段までを扱う。そのうちの第137段「花はさかりに」は、美と無常について語気鋭く述べて『徒然草』の圧巻と称すべき部分である。この段や、酒の利害を人々の生活に即して具体的に語る第175段をもっともまとまった段とし、各章段は長短さまざまである。中には、単に一つの知識をそのまま書いたにすぎないものも少なくないが、それらの行間にも作者兼好の独自なものが見え隠れしよう。

平家物語(三)
講談社学術文庫
平家打倒の謀議にくみして鬼界が島に流された成経・康頼らは、中宮御産の御祈りのため赦されるが、清盛の怒りの深かった俊寛はひとり孤島に流され非業の死を遂げてゆく。清盛の悪業をいさめかねた重盛は、一門滅亡の運命を予期して熊野に祈願をこめるが、それもむなしくやがて世を去っていった。重盛亡き後、清盛は関白をはじめ大臣以下の公卿殿上人の官職を停めて追放し、ついに後白河法皇を鳥羽の離宮に幽閉するに至ったのである。