講談社文芸文庫作品一覧

坂口安吾と中上健次
講談社文芸文庫
闘う知性が読み解く、事件としての安吾と中上ーー日本の怠惰な知性の伝統の中で、「事件」として登場した坂口安吾と中上健次。二人は、近代文学の根源へ遡行しつつ、「自然主義」と「物語」の止揚を目指す。安吾は、自らを突き放すような他者性に文学の「ふるさと」を見出し、中上は、構造に還元することなく、歴史の現在性としての「路地」と格闘する。闘う知性としての安吾と中上を論じた、74年から95年までの批評を集成した、伊藤整文学賞受賞作。
◎「文学」とは、どんな秩序にも属さず、たえず枠組を破ってしまう荒ぶる魂であった。文学をやっている人がすべてそうなのではない。むしろその反対である。文学という枠組を吹き飛ばすようなもの、それが「文学」だった。私と中上は文壇において暴風雨のような存在であった。そして、われわれがともに敬愛していたのが坂口安吾である。(中略)私は安吾を高く評価していた。しかし、小説家としてではない。私にとって、彼の作品は、哲学であり、歴史学であり、心理学あり……、それらすべてをふくむ何か、要するに、「文学」であった。<「著者から読者へ」より>

肉体の悪魔・失われた男
講談社文芸文庫
兵士は戦場で獣と化す。 私もその獣の1匹であった。
1940年から敗戦までの、一兵卒としての中国従軍体験は、皇軍、聖戦という理念の虚妄を教え、兵士たちの犯す様々な罪業、あらゆる惨苦を嘗める現地の人々の姿を透徹した眼差しでとらえることを強いた。人間の持つ深い闇に錘鉛を下ろす戦争文学の数々は厭戦的であり、また戦後の一時代を画した肉体文学は、敗戦後の混乱する社会をも戦場の延長とみなすことで誕生する。田村泰次郎の戦争をめぐる名作を精選。
秦昌弘
省みれば、「肉体の悪魔」の「私」が、敵である中国共産軍の女兵士と愛欲に陥ったのは、正常な状況にはない性にこそ、より強い生の証を得られるからではなかったのか。それは、「失われた男」で伊丹や太田が占領地区とはいえ、いつ敵の反撃があるかも知れないというなかで繰り返していた強姦と一脈通じるものがある。その意味で、「肉体の悪魔」は、歪んだ感覚をもってしまった兵隊を描く田村の戦争小説の原型ともいえる作品であったのである。――<「解説」より>

新編 疾走するモーツァルト
講談社文芸文庫
モーツァルトくらい、孤独と華麗、激情と蕩揺のあいだの距離の大きい音楽家はいなかった――。小林秀雄、河上徹太郎等、日本人のモーツァルト受容史を精緻に跡づけつつ、幼少期から今日迄その音楽を鍾愛し、聴き抜いたモーツァルティアン高橋英夫が、耳と心を研ぎ澄まし、変幻するモーツァルト像に迫る表題作に、「音楽的貴種流離譚」等モーツァルトをめぐるエッセイ14篇を加え新編とする。
天才の「深淵」と「謎」に迫る白熱の論考。
モーツァルトくらい、孤独と華麗、激情と蕩揺のあいだの距離の大きい音楽家はいなかった――。小林秀雄、河上徹太郎等、日本人のモーツァルト受容史を精緻に跡づけつつ、幼少期から今日迄その音楽を鍾愛し、聴き抜いたモーツァルティアン高橋英夫が、耳と心を研ぎ澄まし、変幻するモーツァルト像に迫る表題作に、「音楽的貴種流離譚」等モーツァルトをめぐるエッセイ14篇を加え新編とする。
清水徹
小林秀雄の世代におけるモーツァルト受容をつらぬく、「≪ファゴット・コンチェルト≫から≪ハ長調ミサ≫をへて≪フィガロ≫の<愛の神様>にいたる線もまた、モーツァルトそのものの形をしており、彼の≪やさしさ≫の位相を純粋に辿りうる秘められた小径になっているのではないか」――こんなふうに音型相似性(アンテルテクスチュアリテ)を聴きわけることができるのは、小林秀雄の世代の作品に親しみ、そしてモーツァルトを詳しく聴きこんでいる高橋英夫を擱いて他にないだろう。――<「解説」より>

白と黒の造形
講談社文芸文庫
束の間の幻影に生を賭した銅版画の詩人
銅版画、その白と黒のドラマ。極限の美の世界に魅せられ、人生の懐疑と憂鬱を刻み込んだひとりの芸術家。――現代銅版画の輝かしい旗手として、戦後日本の芸術・文学の分野で先駆的役割を果した駒井哲郎。本書には、創造の秘密にふれる芸術論、ルドン、クレー、ミロ、長谷川潔ら敬愛する画家たちへのオマージュを中心に、冷静な眼と深い思索に支えられた、静謐でポエジー溢れる随筆を収める。
粟津則雄
駒井さんにとって、白と黒は、さまざまな色彩のなかのひとつではなかった。「すべての色彩の極限」であった。しかもこの「極限」は、純化の極であるばかりではない。多様にして豊饒な可能性をはらんだものだった。――<「解説」より>

1946・文学的考察
講談社文芸文庫
ここにあるのは若気の過ちではなく、若気の夢、――軍国主義を呪い、詩を愛した日本の青年の知的な客気である。――<「あとがき三十年後」より>。1946年・敗戦翌年、<マチネ・ポエティク>のメンバー 加藤・中村・福永の共同執筆により「世代」に連載された時評は、新しい時代の新しい文学を予告した。時代を超えた評論は日本近代文学史上必読の書となり、なお不動の地位にある。戦後日本文学はここに出発した。

人生の同伴者
講談社文芸文庫
制度化された宗教を超えて、人間の根源へ。
「日本人にとってのキリスト教」を終生のテーマとして、『海と毒薬』『沈黙』『死海のほとり』『侍』『深い河』等の話題作を生み出してきた遠藤周作。キリスト教文学研究の泰斗・佐藤泰正を聞き手に、満州での幼年期、母の存在と受洗、フランス留学時代をはじめとして、自らの文学を形成してきた体験のすべてを語り、慈愛に満ちた人生の同伴者としてのキリストという独自の到達点を提示する。
遠藤周作
信仰ということばはあまり好きじゃなくて信頼といったほうが私は好きなんですが、大きなものに対する信頼。その信頼感というのが、多少昔に比べて深くなってきました。人間が出すどんな音にも、神はそれに応じて音を出してくれるという信頼です。(中略)どんなものに対しても、神につながる道になるという信頼感が理由なく私の心のなかにできあがってきた。(中略)そこには絶望ではなくてひとつの光が向こうから見えているんだという自信があった。――<「本書」より>

あらくれ
講談社文芸文庫
わたしは自分の人生をあきらめない
年頃の綺麗な娘であるのに男嫌いで評判のお島は、裁縫や琴の稽古よりも戸外で花圃の世話をするほうが性に合っていた。幼い頃は里子に出され、7歳で裕福な養家に引きとられ18歳になった今、入婿の話に抵抗し、婚礼の当日、新しい生活を夢みて出奔する。庶民の女の生き方を通して日本近代の暗さを追い求めた秋声の、すなわち日本自然主義文学を代表する一作。
大杉重男
『あらくれ』は、(中略)「歴史」への抵抗としての秋声の小説の在り方を、最も生々しく語るテクストである。お島という1人の女性の半生を淡々と語っているように見えるこの小説は、しかし決して1人の女性の「歴史」ではなく、むしろ「歴史」への抵抗の荒々しいドキュメントとしてある。――<「解説」より>

三島由紀夫文学論集(3) 虫明亜呂無編
講談社文芸文庫
孤高の美の実践者・三島の偏愛した人と作品のすべて
市川団蔵、中村芝翫、中村歌右衛門、沢村宗十郎へのオマージュにはじまる歌舞伎・演劇論、深く影響を受けたラディゲ、コクトオ、ワイルド、ジュネ等の外国文学論、さらには、二・二六事件の青年将校・磯部浅一の遺稿や『葉隠』まで、三島の美意識に刻みこまれた人と作品を縦横に論じ、小説の美学と演劇への情熱溢れる27篇を収録。批評家・三島由紀夫の文業を精選した論集全3巻完結。
三島由紀夫
折りにふれて、あるページを読んで感銘を新たにした本といえば、おそらく「葉隠」1冊であろう。わけても「葉隠」は、それが非常に流行し、かつ世間から必読の書のように強制されていた戦争時代が終わったあとで、かえってわたしの中で光を放ちだした。「葉隠」は本来そのような逆説的な本であるかもしれない。戦争中の「葉隠」は、いわば光の中に置かれた発光体であったが、それがほんとうに光を放つのは闇の中だったのである。――<「『葉隠』とわたし」より>

平林たい子毒婦小説集
講談社文芸文庫
高橋 お伝 妲妃の お百 花井 お梅
稀代の悪女にして聖女
不治の病に苦しむ夫の薬代のため殺人を犯す高橋お伝、愛しい男を追い、罪人となって流刑地に赴く妲妃のお百、男の裏切りに死で報いた新橋芸者、花井お梅――。江都を賑せ伝説となった稀代の悪女・毒婦たちを、プロレタリア作家として壮絶な境涯を追いつづけた著者が視点をかえ、純粋な愛をつらぬき時代に翻弄された悲劇の主人公として、その生と性を描ききった意欲作3篇。
河野多惠子
たい子における<体あたりで人生の波瀾を見て行こうとする私の心>の願望は、人間についての新しい発見――人間に対する認識への願望の更新である。(中略)男女というものについての彼女の発見願望も一方ならぬものがあった。彼女はその種の発見を作品にも沢山書いている。そうして、平たく言えば、他人の結婚生活や恋愛や情事に対する好奇心も旺盛で、見る眼も鋭いものだった。――<「解説」より>

もぐら随筆
講談社文芸文庫
小田原の生家の物置小屋で、陋巷の隠者としてもぐらのように暮らしながらも大切に守り通した文学への情念の炎。抹香町の私娼窟へ通い、彼女達に馴染み、哀歓を共にし、白昼の光りには見えない底辺に生きる人間の真実を綴った。60歳にして得た若い妻との生活への純真な喜びが溢れる紀行随筆。宇野浩二、中山義秀、水上勉ら師友をめぐる思い出の記。川崎文学晩年の達成を予感させる好随筆集。

三島由紀夫文学論集(2) 虫明亜呂無編
講談社文芸文庫
演劇と映画への傾倒、肉体と陶酔の発見。
文壇の寵児としての華やかな交遊、結婚、子供の誕生というプライヴェートの充実、剣道とボディ・ビルへの熱中、演劇・映画への傾斜……作家が超人的な生活の中から何を思想の核として剔出するかを鮮烈に示す、昭和33年から34年にかけての日録「裸体と衣裳」、自らの文学的出発点と修業の日々を語る「私の遍歴時代」を中心に、日常と創作の往還から生み出された思索の結晶体、9篇を収録。
三島由紀夫
私に余分なものといえば、明らかに感受性であり、私に欠けているものといえば、何か、肉体的な存在感ともいうべきものであった。すでに私はただの冷たい知性を軽蔑することをおぼえていたから、1個の彫像のように、疑いようのない肉体的存在感を持った知性しか認めず、そういうものしか欲しいと思わなかった。それを得るには、(中略)どうしても太陽の媒介が要るのだった。――<「私の遍歴時代」より>

自分の羽根
講談社文芸文庫
小学生の娘と羽根つきをした微笑ましいエピソードに続けて、「私の羽根でないものは、打たない」、私の感情に切実にふれることだけを書いていく、と瑞々しい文学への初心を明かす表題作を始め、暮らしと文学をテーマに綴られた90篇。多摩丘陵の“山の上”に移り住んだ40歳を挟んだ数年、充実期の作家が深い洞察力と温雅なユーモアをもって醸す人生の喜び。名作『夕べの雲』と表裏をなす第一随筆集。
“自分の掌でなでさすった人生を書く”庄野ワールドの原点!
小学生の娘と羽根つきをした微笑ましいエピソードに続けて、「私の羽根でないものは、打たない」、私の感情に切実にふれることだけを書いていく、と瑞々しい文学への初心を明かす表題作を始め、暮らしと文学をテーマに綴られた90篇。多摩丘陵の“山の上”に移り住んだ40歳を挟んだ数年、充実期の作家が深い洞察力と温雅なユーモアをもって醸す人生の喜び。名作『夕べの雲』と表裏をなす第一随筆集。
高橋英夫
『自分の羽根』は庄野潤三の「生き方」「交わり方」のとりどりの見本帖としても読むことができる。私がこれは楽に読みうる本ではあるが、「実は手ごわい1冊である」と書いたのは、そこに関係することだった。「書くこと」と「読むこと」と「日々を生きること」――そのすべての分野を、自分にとって一番相性のいい「短さ」でもって射当て、すくいとり、そのどれをも庄野潤三的世界の一片たらしめていった本、ここに庄野潤三の原型があらわれていた、この思いと共に人は『自分の羽根』を読み終って、ある充実感を味わうのだ。――<「解説」より>

花影
講談社文芸文庫
女の盛りを過ぎようとしていたホステス葉子は、大学教師松崎との愛人生活に終止符を打ち、古巣の銀座のバーに戻った。無垢なこころを持ちながら、遊戯のように次々と空しい恋愛を繰り返し、やがて睡眠薬自殺を遂げる。その桜花の幻のようにはかない生に捧げられた鎮魂の曲。実在の人物をモデルとして、抑制の効いた筆致によって、純粋なロマネスクの結構に仕立てた現代文学屈指の名作。
花の哀れに託した女の一生。
女の盛りを過ぎようとしていたホステス葉子は、大学教師松崎との愛人生活に終止符を打ち、古巣の銀座のバーに戻った。無垢なこころを持ちながら、遊戯のように次々と空しい恋愛を繰り返し、やがて睡眠薬自殺を遂げる。その桜花の幻のようにはかない生に捧げられた鎮魂の曲。実在の人物をモデルとして、抑制の効いた筆致によって、純粋なロマネスクの結構に仕立てた現代文学屈指の名作。
小谷野 敦
葉子が最後に死ぬことは、エピグラフによって暗示され、作品全体は、あたかも夢幻能における死者の語りのように描かれているのである。『花影』を日本の文学伝統のなかに位置づけるなら、それは一見花柳文学だが、実は鬘能の系譜に連なるものなのである。能楽は、徳川時代、武家の武楽であった。つまり武士的精神を枠組として女の色恋を描こうとすれば、死者となった女の語りという形式をとるほかないのである。――<「解説」より>

三島由紀夫文学論集(1) 虫明亜呂無編
講談社文芸文庫
精神と肉体、文学と行動、その根源的一致を幻視する
告白と批評の中間形態、秘められた批評と著者自らが言い、文学と行動、精神と肉体との根源的な一致を幻視し、来たるべき死を強く予感させる、最後の自伝的長篇評論「太陽と鉄」を中心に、30歳の頃の旺盛な創作活動の根柢を明かす「小説家の休暇」等、稀有なる文学者の思索の結晶体ともいえる12篇を収録。三島文学の全体像とそのデモーニッシュな魅力をあますところなく示す全3巻論集。
三島由紀夫
このごろ私は、どうしても小説という客観的芸術ジャンルでは表現しにくいもののもろもろの堆積を、自分のうちに感じてきはじめた(略)そこで私はこのような表白に適したジャンルを模索し、告白と批評との中間形態、いわば「秘められた批評」とでもいうべき、微妙なあいまいな領域を発見したのである。それは告白の夜と批評の昼との堺の黄昏の領域であり、語源どおり「誰そ彼」の領域であるだろう。――<「太陽と鉄」より>

長春五馬路
講談社文芸文庫
ひたすら、淡々と、生きる、長春で。敗戦後、木川正介は、毎日五馬路に出掛ける。知り合いの朝鮮人の配下となり、大道ボロ屋を開業して生きのびている。飄々として掴みどころなく生きながら、強靭な怒りにささえられた庶民の反骨の心情は揺るがない。深い悲しみも恨みもすべて日常の底に沈めて、さりげなく悠然と生きる。想像を絶する圧倒的現実を形象化した木山文学の真骨頂。著者最後の傑作中篇小説。

山を走る女
講談社文芸文庫
21歳の多喜子は誰にも祝福されない子を産み、全身全霊で慈しむ。罵声を浴びせる両親に背を向け、子を保育園に預けて働きながら1人で育てる決心をする。そしてある男への心身ともに燃え上がる片恋――。保育園の育児日誌を随所に挿入する日常に即したリアリズムと、山を疾走する太古の女を幻視する奔放な詩的イメージが谺し合う中に、野性的で自由な女性像が呈示される著者の初期野心作。
太陽に向かう植物のように子を育む女の命の輝き
21歳の多喜子は誰にも祝福されない子を産み、全身全霊で慈しむ。罵声を浴びせる両親に背を向け、子を保育園に預けて働きながら1人で育てる決心をする。そしてある男への心身ともに燃え上がる片恋――。保育園の育児日誌を随所に挿入する日常に即したリアリズムと、山を疾走する太古の女を幻視する奔放な詩的イメージが谺し合う中に、野性的で自由な女性像が呈示される著者の初期野心作。
星野智幸
私は、多喜子のような母親を持った晶は幸せである、と思う。なぜなら、今の若い世代が内側に抱えこんでいる空虚さを、多喜子自身がすでに25年以上も前に持っていて、それを乗り越えようと格闘したからである。(略)子どもは、上の世代を見て育つ。親を見て、教師を見て、上司を見て、生き方の選択肢を広げていく。現代に晶がもっとたくさんいたら、と私は夢想する。家族のあり方は何倍も豊かでありえたのではないだろうか。――<「解説」より>

メタモルフォーシス ギリシア変身物語集
講談社文芸文庫
見果てぬ夢か?終わりのない罰か?
名前の意味から解放奴隷の出身とされるリーベラーリスが、神話やフォークロアに材を求め創造した41の変身物語。厳しい自然の中で人が神や妖精と共に生き、愛を交わし、闘った古典世界。死すべき身の人間の見果てぬ欲望を、神は憎み、時に憐んで、人を鳥や獣や星へと変身させる。善悪の判断や装飾を一切加えない素朴で力強い物語は、まさに文学の豊かな源泉。ギリシア語原典からの本邦初訳。
安村典子
変身とはまた、人間の本性の多様性を意味するものであったのかもしれない。(略)絶対的な神がこの世を支配しているのではなく、泉には泉の精がおり、樹木には樹木の精が宿っている。変身物語が好まれる精神の土壌として、このような多様性を受け入れる資質があったことは、否定できないであろう。人間の情熱や欲望が、絶対者としての神に否定されることなく、その情熱にふさわしい動物や物体に変形するまで、続いてゆくのである。――<「解説」より>

第一義の道・赤蛙
講談社文芸文庫
<義>を渇仰した生の求道者・島木健作の文業を精選
出獄後の生き方を模索する順吉の前に立ちはだかる母の存在。<義>に生きようとしつつも、それを果たせぬ焦燥と苦悩を描いた「第一義の道」、生きものの生死を通じて自己を見つめた心境小説の名作「黒猫」「赤蛙」「ジガ蜂」、<北方人の血と運命>をかけ、長篇として構想されながらも絶筆となった「土地」等、6篇を収録。苦多き短い生涯を、求道的な精神とストイックな理想主義で貫いた島木健作の稀有なる文業を精選。
新保祐司
島木が昭和11年に発表した「第一義の道」は、このタイトルそのものが島木の人と文学を象徴しているような中篇である。獄から出てきた島木その人と母親の生活を描いた、いわば私小説的なものだが、島木健作とは、いってみれば「第一義」を求めた人であった。もっと正確にいえば、「第一義」のみを求めた人であった。そこから、この暗い小説の、息苦しいほどの雰囲気が生まれてくるのである。――<「解説」より>

徳利と酒盃・漁陶紀行
講談社文芸文庫
やきものを愛し 酒を愛し 人を愛した天衣無縫
静かでうれいに満ちた美しさをもつ李朝彫三島扁壺、端正で気品のある中国陶磁の至宝、北宋汝官窯青磁輪花碗、枯淡なうちにほのぼのした明るさをたたえた信楽の壺、わが愛すべきやきものに寄せた『骨董百話』をはじめ数々の名随筆をのこした陶磁研究の第一人者、小山冨士夫。みずからもすぐれた陶芸家であった、その美への探究心をあますところなく伝える随筆集。
森孝一
信楽の楽斎窯(らくさいがま)では、「この土に少し酒を飲ませたほうがいい。ほろ酔いがいい」と独り言をいいながら轆轤を挽いていたという。<ほろ酔い>という表現は、いかにも小山の作品のかたちをいい得て妙である。人の性格も土の性格も、ほろ酔い加減の時が一番素直に現われるというのであろうか。そうした作陶は、まさに小山の天性のものであり、近代の陶芸家の中でもこれほど自分の個性を、しかも自然体で表現出来た陶芸家も稀である。――<「解説」より>

動物の葬禮・はつむかし
講談社文芸文庫
二十代に詩を書き始め、三十代で「うた」と訣れ小説家に。生まれ育った大阪の言葉がもつ軽妙さと批評性を武器に、家族、愛、性の幻想から「人間という生き物」を解き放ちつつ現代文学の尖端でラジカルな表現を続ける。孤独な青年の死を周囲のドタバタ騒ぎに映して鮮やかに浮き彫りにする「動物の葬禮」、親を殺し子を捨てる男の衝動を実存の闇として描く「末黒野」など、著者自選の九篇。