講談社現代新書作品一覧

ロスチャイルド家
講談社現代新書
世界の金融と産業を牛耳るユダヤ財閥の秘密。初代マイヤーが五人の息子を主要都市に配したとき、戦いは始まった。ナポレオンから二つの大戦まで、鉄道からダイヤモンドまで、歴史を裏で動かした一族の物語。(講談社現代新書)
世界の金融と産業を牛耳るユダヤ財閥の秘密。初代マイヤーが五人の息子を主要都市に配したとき、戦いは始まった。ナポレオンから二つの大戦まで、鉄道からダイヤモンドまで、歴史を裏で動かした一族の物語。

修道院
講談社現代新書
神を想い、清貧に徹し、労働を重んじる――中世社会に影響を与えた修道院の活動の理念を軸に、その起源と展開を辿る。
回廊にて――回廊こそは、修道士たちの日常生活の場であり、家にたとえていえば、さしずめ居間というべきであろうか。中庭には、決まって泉水があり、修道士たちは、手を洗い、顔を洗い、口を漱ぎ、足まで洗ったであろう。回廊はまた、いろいろの機能を持つ。まずは、歩きながら聖書を読む。つまり、歩道であると同時に、読書の場でもある。そして、黙想や瞑想の場でもあった。また写本をする写字生の仕事場でもある。また、時と場合によっては、談話室に早がわりすることもある。あるいは、聖歌の練習の場にもなる。(略)回廊は、その四辺から楽園の四つの川(ピション・ギホン・チグリス・ユーフラテス)、四人の福音史家(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ)、四つの枢要徳(賢明・正義・剛毅・節制)を思い起こさせ、神の国はこんな場所ではないかと想像されていたらしい。――本書より

日本語誤用・慣用小辞典<続>
講談社現代新書
一瞬先は闇? 怒り心頭に達する? いやが応にも? 世にはびこる誤用・慣用を「根掘り葉を折り」探し出し「根ただしにする」大好評シリーズ第2弾。
二度繰り返す――ある読者から手紙が来て、「二度繰り返す」という言い方は、おかしいというのである。「繰り返す」という動詞は〈同じことを二度する〉という意味であるから、単に「同じ誤りが繰り返されている」と言えばよいので、「二度」を入れるべきではないというのがその理由であった。「二度」を入れれば同じことを四度行う計算になるというのである。…… しかし、結論を先に言うと、これは誤用ではない。この「二度」は表面的に見ると、「繰り返す」動作そのものを指していると取ることができ、右の読者もそのように取っていて、それ以外の解釈はあり得ないと信じ込んでいるわけであるけれども、実は「二度」にはもうひとつの用法があり、〈同一の動作が結果として二度行われる〉という意味が出て来る。――本書より

ヒトラーとユダヤ人
講談社現代新書
追放、大量虐殺、絶滅……ヒトラーの異常な反ユダヤ主義はいかに生まれ、実行されたのか。ウィーン、ミュンヘンでの青春期に芽ばえ、世界大戦への過程で極限に行きついた狂気の原因、推移を検証する。
《ユダヤ人絶滅》の予告へ――「水晶の夜」事件から絶滅の予告をするまでの3ヶ月間弱の間に、ヒトラーはその前触れとなるようないくつかの発言をしている。「もしドイツ帝国がいつか予期せぬ時に、外交上の紛争に直面するなら、われらもドイツにおいて、まず第1にユダヤ人に対し大がかりな責任追及をし、その精算をしなければならないことは当然である」「ユダヤ人問題は近いうちに解決するであろう」「私はユダヤ人をあるどこかの遠く離れた地に居住させることに賛成である」「われわれのところのユダヤ人は絶滅させられる」――本書より

20世紀言語学入門
講談社現代新書
言語の「構造」の発見が20世紀の知を変えた。言語学革命の核心と巨大な影響に迫る。
「言語(ラング)」にしたがってわれ思う――構造言語学的な概念の拡大適用によって、婚姻規則や神話の構造を次々とあばき出してきたレヴィ=ストロースは、1962年の「野生の思考(=三色スミレ)」の最終章で、当時全盛をほこっていた実存主義の領袖ジャン=ポール・サルトルを攻撃し、構造主義ブームの火つけ役となる。彼の活動によって浮き彫りになってきたのは、当該社会の個々の構成員には感知されぬままになっている「文化の無意識的なシステム」であったわけだが、そこにおいて「われ思う」は、「ランクにしたがって、(われ)思う」となり、「無意識的なシステムにしたがって、(われ)思う」ということになる。当然ながら、主体の実践に重きをおく実存主義やマルクス主義の陣営からの反発が生じることは、火を見るよりも明らかだった。――本書より

メタファ-思考
講談社現代新書
目玉焼き・メロンパン・希望の光・人生の黄昏――日常言語に含まれる思考手段としてのメタファーをとりあげ、人間的意味の形成のしくみを明かす。
メタファー早分かり――「月見うどん」はメタファー、「きつねうどん」はメトニミー、「親子丼」はシネクドキ。また、「白雪姫」はメタファー、「赤ずきん」はメトニミー、「人魚姫」はシネクドキ。さらに、「たい焼」はメタファー、「たこ焼」はメトニミー、「焼き鳥」はシネクドキ。
メタファーは、類似性に基づく。より抽象的で分かりにくい対象を、より具体的で分かりやすい対象に《見立て》ること。(略)
メトニミーは、現実世界(民話のような想像世界も含める)のなかでの隣接関係に基づく意味変化である。「赤ずきん」は「赤ずきん」そのものを指すのではなく、赤ずきんをかぶった女の子(赤ずきんちゃん)を指す。(略)
シネクドキは、意味世界(私たちの頭のなかにある)における包含関係に基づく意味変化である。(略)「親子」という類で特定の種「鶏とその卵」を表し、「人魚」という類であの海に身を投げて泡と消えた「人魚姫」を表している。――本書より

オペラ歳時記
講談社現代新書
春の誘惑、真夏の夜の惨劇、秋の美少女、クリスマスの悲恋。季節は恋の媚薬、そして恋はオペラの命。〈ワルキューレ〉から〈ボエーム〉まで、めぐりゆく12カ月を軽妙なエッセイで綴る、悦楽のオペラ・カレンダー。
オペラと季節の結び目――塔から垂らされたメリサンドの髪にペレアスが指をからませていたのが見つかってしまったのは、まちがいなく夏だった。ではドン・ジョヴァンニがセビリヤの郊外で村娘ツェルリーナを誘惑しようとしたのは、一体春なのか秋なのか?6月なのだろうか9月なのだろうか?これから並べるのは、オペラと季節とを結ぶ、結び目のいろいろだ。1月に5つ、2月に5つと、12月まで続いて、数は60ある。うまく結べてリボンがなんとか蝶のかたちになっているんじゃないかと自負しているのもあるけど、中にはほどけかけているようなものもある。うまくいったらおなぐさみ!――本書より

プラス暗示の心理学
講談社現代新書
プラスの予想と楽観的判断の適度な組み合わせが、行動をより良い方向へと変えていく。暗示を受け入れやすい態勢を整え、内なる言葉の力を活用する方法を説く。リラックスから能力開発まで役立つ1冊。
まずリラックス――何かに悩んだりこだわったりしていると、そのことに意識を向けるだけで、不愉快になったり、不安になったり、憂鬱になったりすることが少なくない。こんな時には、悩みに意識を向ける前に、まず気持ちをリラックスさせ、安定させる必要がある。つまり、心身をリラックスさせる練習から始めるのが、もっとも確実で効率の良い方法である。心の悩みが大きいと、身体は過緊張に、情緒は不安定な状態になる。また、慢性的な緊張や不安があると、心の悩みを引き起こしやすく、それをこじらせるようになる。逆に、リラックスしてのびのびしていると、悩みの克服はそれだけ容易になり、能力の開発に大変有利な状況になる。――本書より

「気」で読む中国思想
講談社現代新書
神話の時代から20世紀末の現代に至るまで、中国思想史の流れのなかで「気」はいかに捉えられてきたか。「気」の概念の誕生から、その深化と多彩な展開のプロセスを跡づける。
「気」の今日的意義――その一は、全体性である。20世紀の人類は空前の知識と高度な技術の体系を自分のものとしたが、そこには個別深化という特徴がある。最先端といわれる分野ほどそうである。だが、それは同時に「木をみて森をみず」という欠陥をもつという指摘がある。グローバルな視点が求められている昨今、「気」の概念がもつ全体性、包括性、柔軟性といった特徴は、大きく評価されることになるだろう。
その二は、自然回帰である。人類はすこし工業化を急ぎすぎているようだ。「発展途上国」は「先進工業国」に追いつこうとして懸命である。公害の防止がすでに一種の産業技術となった現在、もっとも公害に悩まされているのは逆説のようだが、発展途上国である。ところが大自然のなかに回帰すると、人々は心からの安らぎをおぼえるのである。それはやはり自然の「気」につつまれるからであろう。――本書より

神風と悪党の世紀
講談社現代新書
蒙古襲来を機に高揚する、神国思想。各地で進む、寺社・荘園の再建(リストラ)、聖地回復の民衆運動と排除された者たち。時代の変革願望がもたらした、後醍醐天皇の「新儀」とは。鎌倉末から南北朝へと続く、動乱の世紀を活写する。
伊勢神道の成立――始祖法然・親鸞をはじめ、専修念仏を主張して神祇不拝の原則を堅持し、危険思想として弾圧され続けてきた念仏教団――その一派である時宗は、いち早く、この反体制の立場を放棄し、体制肯定・現世利益の神仏習合に進んだ。そして、蒙古襲来により神国観念の高揚する中、ついに他阿真教(のち時宗の主流)に至って、神本仏迹の神国思想に追随するまでになった。皮肉なことであるが、念仏の教えは、この時はじめて遊行の大衆運動として高揚し、民衆世界に広く浸透したのであった。しかし、その教えは、始祖の時代の真の変革思想とはほど遠く、体制仏教をさらに強化・拡大するための革新に変貌していたといわなければならないだろう。……このように神と仏が結合の度を強める中で、ついに神祇の存在を否定する真の反体制宗教が姿を消してまったこと――これこそが、中世神国思想の成立の意義といえよう。しかも「諸宗がこぞって変革をうたい、真の変革思想がこの世から消える」という事態は、宗教の世界に留まらなかった。――本書より

現代ドイツ史入門
講談社現代新書
何がドイツを引き裂き、劇的に統合させたのか?米ソ英仏の反目と敵意の谷間で翻弄され続けた傷ついた大国ドイツ。日本未公開資料を駆使して描く激動の半世紀。
1990年10月3日、ドイツ統一──東ドイツの人民議会は1990年3月18日の初めての自由な選挙の結果、キリスト教民主同盟を中心とした保守連合「ドイツ連合」が得票率で48.15%、議席で193という大勝を博した。……予想を上回るキリスト教民主同盟の好成績は、豊かな西ドイツ経済に1日もはやく参加したいという東ドイツ市民の願望の表れだった。……1990年10月3日、ドイツ統一の日である。午前零時、ベルリンの国会議事堂まえは、この日を祝うために集まってきた人たちでごった返していた。分裂国家が生まれてから41年、統一がこのような形で実現しようとはだれが想像できただろうか。議事堂に集まった政治家も、前の広場で花火を打ち上げ、シャンパンのグラスをあげる市民も、多くの人々が涙をうかべていた。──本書より

心のメッセ-ジを聴く
講談社現代新書
自己の解放は内なる「実感」を感じとることから始まる。重く停滞した心を開くフォーカシングの技法を、心理臨床の現場から解説。
カウンセリングと実感――「気持ち」という場合、悲しい、寂しい、嬉しい、など特定の内容をもった感情を指すが、「実感」はそれらよりも複雑で漠然とした、実際に感じられる体験という意味で用いる。たとえば、悲しい「気持ち」といっても、実際に「実感」してみると、そこには悲しきの「質」とか「色」のように、状況によって微妙にことなるトーンがあることがわかるだろう。それを表現してみるとすると、それはおそらく「悲しいような、暗い、重たい……何とも表現しにくい雨音が胸に染み込むようなじーんとした感じ」という具合に複雑で、簡単に「悲しみ」という一言では表現しにくい性質であることがわかるだろう。このような体験をここでは「実感」と表現しておく。――本書より

修羅を生きる
講談社現代新書
話題を呼んだ映画「月はどっちに出ている」の原作者が赤裸々に綴る破天荒の青春譚。骨肉の葛藤、詩への耽溺、無頼と放蕩……鮮烈に生きぬいた在日朝鮮人青年の軌跡。
なぜ、私は書くのか――私は作家にならず生涯をタクシー運転手で過ごしてもよかったのである。実際、私の生き方はそういう生き方だった。私は自分の家族に多くの犠牲を強いてきたが、それは作家になろうとして家族に犠牲を強いてきたのではない。もっとはっきり言えば、私はきわめていい加減な人間だった。私は母に溺愛されたが、家族愛というものを知らなかった。しかも父を反面教師としながら、別な意味で、つまりエゴイストという点で、私は父にそっくりだった。私は自分のことしか考えない人間だったのである。そしてなぜ作家になったのかと言えば、私はついに断念の思いを悟れなかったからだというほかはない。――本書より

武士道とエロス
講談社現代新書
男達の恋「衆道」を通して語る江戸の心性史。殿と小姓、義兄弟など、男同士の恋は武士の社会に溶け込んだおおらかなものだった。彼らの「絆」の意味と変容を新視点から捉え直し、江戸という時代を照射する。(講談社現代新書)
男達の恋「衆道」を通して語る江戸の心性史。殿と小姓、義兄弟など、男同士の恋は武士の社会に溶け込んだおおらかなものだった。彼らの「絆」の意味と変容を新視点から捉え直し、江戸という時代を照射する。

メルヘンの深層
講談社現代新書
シンデレラや赤ずきんちゃんの物語から魔女裁判、人間狼、子捨てなど、ヨーロッパ社会の忘れられた実像が見えてくる。
白雪姫と魔女裁判――白雪姫と王子の結婚披露宴に招かれた継母は、炭火で赤く熱せられた鉄製の靴をむりやりはかされ、死ぬまで踊らされたということです。継母が熱い鉄の靴をはかされた理由は、魔女として魔術をおこなったということでしょう。16、17世紀の西欧世界では、魔女や異端の審問をおこなう当局が、密告や告発を奨励するあまり、子供の証言をも得ようとして、証言能力についての年齢制限を撤廃しています。ですから年少の娘や息子が母親を魔女として告発することなど、珍しいことではありませんでした。私はむしろ、いささか虚言癖があって被害妄想の女の子が、母親の真意を曲解して魔女裁判に追いやった物語として、このメルヘンを解釈したいと思います。――本書より

ア-ユルヴェ-ダの知恵
講談社現代新書
人間にとって真の健康とは何か? 近代西洋医学の限界を補い、心身をトータルに捉えた医療体系として、新たな脚光を浴びつつある「生命の科学」。その理論と実践を平易に解説する。 知恵の再発見――アーユルヴェーダとはインドに伝わる伝統医学のことである。東洋医学が見直されるようになって久しいが、ふつう東洋医学といった場合には当然のように漢方(中国医学)だけを指すことが多い。しかし、これは正確ないい方ではない。その起源の古さからも、また、現在も脈々と生きている伝統医学という意味でも、アーユルヴェーダは漢方と並んで東洋医学の双璧をなすものでからである。むしろ漢方よりもアーユルヴェーダのほうが古く、かつ漢方の成立にアーユルヴェーダが大きな影響を与えたという説もあるくらいである。西洋医学の教育を受けた医師が東洋医学と出会い、その思想や治療法を取り入れているのはもう珍しいことではない。――本書より

高齢社会・何がどう変わるか
講談社現代新書
急テンポで進む高齢化は日本社会に何をもたらすか? 老人医療や介護、福祉や年金制度、老齢者の生きがいと社会的役割などの諸問題を、個人・家族・地域・企業の観点からとらえて、そのあるべき姿と対応策を考える。
高齢社会の到来――社会レベルの老化を「高齢化」とよぶことにすると、今日、成熟段階に至った社会のすべてが高齢化という大きな社会変動の渦中にあるといえる。高齢化が進行し、その頂点に近づくと「高齢社会」が誕生する。これは経済力が充実し、国民生活水準が向上した産業社会特有の社会形態である。特にこのような動向は、世界の先進国に共通にみられる歴史であり、20年遅れでアジア四小龍(台湾、香港、シンガポール、韓国)でも認められはじめた。また、社会主義市場経済を標榜する中国でも、「一人っ子政策」の結果、21世紀初頭には本格的な高齢社会の到来が予想されている。――本書より

スウェーデンボルグの思想
講談社現代新書
時代を先取りした宇宙論や大脳観の先見性。夢や幻視体験から得られた、独自の霊界論と、普遍宗教への希求。18世紀スウェーデンの天才の、科学と神秘をかけ渡す思想を概観。
普遍宗教への道──スウェーデンボルグの教説は、あまりに平明・直截なので、肩透かしを食ったような感じを抱かせるかもしれない。それは実際、ごく常識的な宗教であり、道徳である。こうしたあたりまえの宗教の価値は、独善・偏見・排他といった、宗教が陥りがちな歪んだ側面によって傷ついた者に、いちばんよく分かるであろう。スウェーデンボルグの宗教が素朴すぎてつまらないと考える人がいるとしたら、その人は彼にオカルト的なものを期待しすぎているか、宗教や信仰の本質を神秘的なものと思い込んでいる人である。……彼の伝統的キリスト教への批判は、ゆきすぎと思えるほど苛烈なものだったが、それは、善や愛の価値を低めて無にまで貶めようとする、あらゆる偏狭な信仰や教説を嫌悪したがゆえである。彼の説く普遍的な宗教の原理をひとことで示す、彼自身の有名な言葉がある。「宗教はすべて生命に関わるものであり、宗教の生命は善を行なうことにある」──本書より

共和党と民主党
講談社現代新書
超大国アメリカを動かす2つの巨大マシーン、「自由と競争」の共和党、「平等と公平」の民主党。世界で最もパワフルな二大政党制の実態に迫る。
二大政党制のメリット──このような制度のなかでは、統治される側の「あきらめの気持ち」が入り込む余地はない。……統治している側も、統治される側とさして変わらない人間たちなのである。そこで統治の任にあたっている者に対して統治権者に対する疑念や不服従、代替の政策の提案などは、したがってアメリカの政治の世界ではごくあたり前のことである。私たちは、合衆国議会が大統領のいうことを聞かなかったり、あるいは議会のなかで民主党と共和党が激しくあらそう様子をしばしば見聞する。世論が沸騰して多様な意見が入り乱れ、時の政権が倒れそうになるくらい反対意見がうず巻くなかで、かろうじて政策が遂行されていくのを目撃する。しかし、それがアメリカの政治の普通の姿なのである。このような国内の騒乱に似た状況が、アメリカの政治の正しい姿であり、それゆえにアメリカはかろうじて民主主義の制度を守り抜くことができているのである。──本書より

錯覚の心理学
講談社現代新書
現実には存在しえないものが描かれ、存在しないのに見えてしまうのは、なぜだろうか。視覚のメカニズム、知覚や認知の合理・不合理を考察する。
感覚は間違わないか──なぜ、たかが単純な図形の見かけ上の歪みをそんなに騒ぐのであろうか。これに対する答えの1つは「錯覚は面白い」からだ。われわれの目がこれほど簡単にだまされるということへの好奇心は誰にもある。……われわれの感覚と心の働きの間に2つの考え方が存在していた。1つは、感覚は変わりやすいし不正確なものだ。そこで心の働きが外界の正確な写しを作りだし、歪みを正すというものである。もう1つは、感覚は本来正確で環境の真実の姿をとらえるようにできている。限界があるのは心であり、間違うのも判断能力であるとするものである。錯視を研究することで、この知覚の問題を解決することができるかもしれないという期待があった。──本書より